第6話 ステファニーはどこ?(2)
朝は目を覚まさないように静かに支度して仕事に出かけてくれる。起きてお見送りをしたい気持ちもあるけれど、学生に早起きは拷問だ。美容と健康にも悪い。
今朝はどうしたことか、目が覚めてしまった。まだ八時にもなっていない。久しぶりに泊まったから久保田さんがいることに敏感になったのかもしれない。そのわりに、ベッドから起き上がると沙莉ひとりだった。たぶん部屋を出ていくときのドアの音で目が覚めたのだ。いや、トイレに行きたくなっただけかもしれない。ベッドを出る。玄関の鍵を開ける音がして立ち止まると、久保田さんがもどってきた。
「どうしました?」
久保田さんははいってこないで、そのままドアを閉めてしまった。どうしたのだろう。
「相内さん、傘とってください」
ドアをすこしだけ開けて、隙間から声を送り込んできた。さっきドア開けたんだから傘とればよかったのに。こっちはトイレ行く途中だっての。
「はい」
手があらわれたから、傘の柄を握らせてやる。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
トイレを済ませてベッドにもぐりこんだ。今日は雨が降るのかな。買い物に行かないといけないのに。面倒だ。
昼間は創作活動。長期滞在の口実とはいえ、創作意欲が湧いているのは事実だ。クラゲ、どうやって彫刻にしたらいいだろう。しばらく頭を絞ってもアイデアが浮かばない。困ったときはインターネット。久保田さんのパソコンで検索してみる。専用のアカウントを作ってもらったのだ。クラゲ、彫刻。検索結果はいろいろ出てきた。でも、ガラスの中に色付きガラスでクラゲの格好をつくったものがある程度。沙莉の心に響くものはなかった。長期滞在の許可が出たのだから慌てることはないか。ゆっくり考えよう。
夕方にまた買い物に出かける。外はどんより曇っていた。空気がすこしヒンヤリする。降ったりやんだりしているらしい。道路が濡れている。スーパーではレジが混んでいた。今日は土曜日か。せっかく学生だけ夏休みなのだから昨日のうちに買い物をしておけばよかった。とはいえ、明日の分の買い物をしたいと思っても、明日なにを作るか決まっていないから買い物ができない。
水にさらしておくものだけ時間がかかるから水につけて、あとの食材は冷蔵庫にしまっておく。しばらく頭を悩ませたけど、クラゲに進捗はないまま夕食の支度にとりかかった。
「これは、昨日の仕返しですか」
夕食のテーブルについた久保田さんが水槽を見る。クラゲがノン気にただよっている。
「女を怒らせると怖いんですよ?」
「それは知ってますが」
中華サラダのクラゲを箸でつまんで口にいれる。
「この格好で売ってるんですか?」
「そうです。姿クラゲ、新商品らしいですよ」
「うん。コリコリ。もやしシャキシャキ」
「炒め物も食べてください」
「こっちは鶏肉ですね」
「サラダにあうかと思って、中華で揃えました」
「ああ、やわらかでジューシー。おいしいです」
昨日、クラゲは水分ばっかりで食べられないようなことをいっていたから、クラゲ入りの中華サラダにしたのだ。サラダが中華ならメインも中華にするのがよいと思って、鶏肉の炒め物にした。昨日とちがって芸大生らしさはみじんもないけれど、クラゲを知るということは無駄にならないはずだ。
沙莉の調べによると、食用のクラゲは六種類。リスト外のミズクラゲを食べてみたというブログ記事を発見して小躍りしたけど、あまり成功していなかったようだから見なかったことにした。ミズクラゲを捕まえたくないし、ブログでは下ごしらえに三日くらいかかっていたし。
食用になるクラゲ六種類は、キャノンボールクラゲ、ビゼンクラゲ、ヒゼンクラゲ、エチゼンクラゲ、ホワイトクラゲ、チラチャップクラゲ。備前だの、肥前だの、日本っぽいクラゲは親しみがもてる。キャノンボールとホワイトはアメリカっぽい。チラチャップってなんだろう。アイヌ語かな?エチゼンクラゲは大量発生して漁業関係者が迷惑するやつだ。食べられないから邪魔だってことかと思っていたけど。食べられるということは、クラゲは売っても値段が安いから魚を獲りたいということかな。
スーパーで買ってきたのは姿クラゲという商品で、原料はキャノンボールクラゲだ。姿クラゲという名前のとおり、ちいさいクラゲの形に加工してある。わりと最近開発された商品らしい。はじめて見た。普通、クラゲといったらひも状を思い浮かべる。
「ところで、昨日誘惑しないでっていったのに、なんだったんですか今朝の格好は」
「今朝?ああ、傘をとりに戻ったときですね。トイレに起きたんです。久保田さんが出ていくドアの音で起きたのかもしれませんけど」
「なんであんなエロい格好だったんですか」
「エロい?」
あ、そうか。真理ちゃんの影響でベビードールを買ったんだった。昨夜寝るとき、久保田さんは先にベッドで眠っていた。今朝も久保田さんは静かにベッドを抜け出したから、ベビードール姿を披露していなかったのだ。傘をとりに戻ってドアを開けたときに初めて、久保田さんはベビードール姿の沙莉を目撃したのだった。刺激が強すぎただろうか。下着姿よりセクシーなくらいだから無理もないか。
「忘れてました。あれはベビードールといって、女の子のスリープウェアとして定番の地位を占めているものですよ。いま着替えましょうか」
「遠慮します。ということは、あんな格好でとなりに寝てたんですか。おそろしい」
「おそろしくありません。よろこんでください。美しかったでしょ?」
「うーん、エロかっ」
上体をテーブルから反らす。頭を逃がしたのだ。顔かもしれない。
「なにもしてませんよ」
「野生の勘です」
久保田さんは勘が鋭くなったらしい。でも、なにもするつもりはなかった。エロいことは認めよう。それに、久保田さんにせまるには、やっぱりあの格好は刺激が強すぎて逆効果かもしれない。
「普通のパジャマの方がいいですか」
「人類には」
「ベビードールだって人類が着るものです」
「つまり、おれの問題です」
そうなると思っていたから気にしない。ベビードールはキャリーケースにしまい、パジャマで寝ることにした。
朝、目を覚まし、パジャマを着替え、朝のなんやかやを済ましてクラゲ作品に取り組む。水槽は透明な水で満たされている。
「ステファニー、どこいった?」
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