第10話 終わりと始まり
勝太が怒鳴る。私には聞こえない。香山がいる。
「おい、果歩から離れろ。浮気相手って、お前かよ。チビ!」
勝太が怒鳴る。私の耳をふさいだ香山が笑う。
「そうだよ」
「ふざけんな!」
ふみ子さんが座席のところまで来て、
「ちょっと君、勝手に入らないで」
いつもより厳しい表情をしていた。だけど勝太には届かない。
勝太には誰も届かないのだと、その時にようやく私は気づく。
彼は私の耳をやさしく塞いでいた香山を殴った。
私は、
「私が好きなんじゃないんでしょ」
ついに、
「勝太は人形が好きなんだ」
と、
「私がどういう人間かなんて」
ついに、
「知ったつもりにならないでよ!」
勝太に立てついた。
そうだ、ワンピースなんか捨ててしまえばよかった。
そうだ、小説なんかより漫画が好きだ。
そうだ、猫王子はこの人とは行けない。
そうだ、もっと自分を見せつけてやればよかったんだ。
何がしっかりとした愛情だ。格式ばった形だけのものじゃないか。
私は指輪を勝太に投げつけていた。
その指輪は転がって、こつりと尖った靴に当たる。
ふみ子さんが、
「あらあんたこんな修羅場に来ないでよ」
と言うので見やると、
「ふみちゃん珈琲ちょうだい」
なんのことも受け流してそこに立つカラーコンタクトの王子が居た。
私に気づいた彼が、
「あれ、姫じゃん。どうしたの。っていうか香山、寝てんのこれ」
のびきった香山に蹴りを入れると、香山は呻いて起き上がる。
「勝太。香山とは何もないの。私が寝たのは、この人だから」
私が王子を指さすと、マリと穂波と洋二が息をのんだ気配がしたが、
「わかった。君がそんなに軽い女だとは知らなかった」
と言って勝太はもう、私を振り向かずに店を出て行ってしまう。鍵を、と言えば勝太は無言で胸ポケットから私の家の鍵を出して、とうとう私たちは別れるというのに、さようならもありがとうも言えず、そして心では触れ合えないまま終わってしまった。
「ねえ、呑もうか」
マリがいつもみたく唐突に言う。
傷を頬につけた香山が座りなおす。
洋二がいつもみたく補足する。
「BARどこにする、マリ」
この二人はもしかすれば付き合っているのだろうか。
穂波が、
「なんか大変だったね、果歩ちゃんのカレ」
と言うと、
「大変なのは俺でしょ」
香山が鼻で笑う。
「ふみ子さん、酒ってない?」
「まあ、あるけど。ここでいいの?」
全員が、
「ここがいい」
と言う顔で、その日はボトルワインを三本開けた。
しかしなぜか、カラーコンタクトの王子もそこに加わってそれが自然で。
「どうして、王子がここに居るの?」
酔いが少しばかり回った頃に訊くと、
「へ?聞いてないの?俺、香山と洋二のバンド仲間だよ」
と返ってきた。
それでか香山が、
「よりにもよってこいつと浮気ってどういうこと」
いつもより低い声で唸った。
そのまま呑んだくれていても良かったが、私は気持ちのどこかで勝太を思っていた。そして、それは何度も思う苦々しい思い出として残るんだろうと気付いて、ふと笑ってみたくなった。
帰り道、香山が私を追いかけてきて、
「心配だから送る」
と手をつないできた。
その手は男の人にしては小さくて、指輪だらけでゴツゴツしている。
「寝たの?」
低い、獣がするみたいな唸り声でそんな確認をとられる。
「あいつと、寝たの?」
少し力が入った手と、横顔には嫉妬心が垣間見える。でも、香山だから。
でも香山だから、私は素直になって、
「寝たよ」
と正直に答える。
そうすると香山だから、
「わかった」
キスをしてくれるのだ。それは縛り付けるキスなんかじゃなくて、
ただの始まりの、ただの凡庸で優しくて、そして飛び切り自由なキス。
「俺、果歩さんが好きだよ」
甘く、囁いた声が耳にかかると、私も素直に、
「私のほうが香山のこと好きだよ」
なんて、ついつい口から漏れてしまうのだった。
おわり
さいわい、やさしくて 七山月子 @ru_1235789
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