第9話 反応
青い瞳の金髪は、ラブホテルという名の城で王子ごっこをしてくれた。
先ほどまでの雨で濡れた私たちはお風呂という現実と幻想の境目にまだ居て、裸のまま私は勝太からも香山からも逃げていた。
「俺の名前、気にならないの?」
「気になるけど、どうでもいいかも」
「じゃあ、王子って呼んでいいよ」
そう言って私のおでこに軽くキスをし、私の肌に触れた王子の手は優しかった。そのまま湯ざめするまで抱き合って、そして姫のように抱きかかえられ濡れた私と王子はシーツの海へ転がり、次こそは獣になった王子の乱暴なようでやっぱり優しいセックスが始まった。
私は、人生で初めての浮気をしたのである。
朝に目を覚ますと明るい晴天の窓辺で、王子が振り向いた。
「起きた?果歩ちゃん」
「王子の目が青くない」
「カラーコンタクトでしたぶっぶー」
微笑んだ彼と私は手をつなぐこともなくキスを交わすこともなく昨夜と同じピンクのライトに照らされながらエレベーターで一階まで降り、じゃあ、と軽く手を挙げてお互い振り返らず帰路についたのだった。
あっさりと浮気してしまいあっけらかんとした私の心境は、どうしてか清々しくすらあった。不思議と、勝太なんかどうでもいいじゃないかと思えた。ただ恋人によく思われたかった私はそんなに悪いことをしていたわけでもないだろうし、あっちだって縛り付けたんだから浮気されたって仕方ないといえばそれまでだろう。
なんだかしらないがすごく悩んでいた自分がバカバカしくなって、ちょうど今日が日曜日なことに気づいて、私は軽い気持ちで電話をした。
勝太は半コールもしないうちに取って、
「果歩か?何してるの?」
といつも通り私の動向を窺うところから入った。
「ねえ勝太。私たち、別れるべきだって思うの。だって、私、浮気しちゃったんだもの」
そう言って電話をすぐに切り、それから勝太を着信拒否に入れてしまう。
こんなに簡単なことが、どうして今まで出来なかったのか。
カラーコンタクトの王子に、感謝だ。
しかし家に近づくにつれ、なんだか恐ろしくなってきたのは確かだった。勝太にあんなことを言ったのだから、そのうち仕事上がりにでも私の家に来て、私を責めるのではないだろうか。もしかすれば殴られる可能性もある。
怯えた足で家とは逆方向に歩いていくと、純喫茶同好会へと勝手に向かっていたから少し驚いた。
昨夜と同じ服で入ることに抵抗を感じはしたものの、他に思い浮かぶ場所もなく、私はカウベルを鳴らして入店する。
ふみ子さんが私を見て、ふっと笑ったように見えた。それはなんだか包み込むような微笑みで、私は安心した。
「果歩ちゃん、今日も純喫茶同好会、いるよ」
指さされた通りに座席へと進むと、面々は私をみてそれぞれ挨拶をしてくれた。
マリは長い爪に今日はラメではなく、向日葵色を乗せていた。
穂波も同じく向日葵色で、ブレスレットもいつも通りだった。洋二はアロハシャツを着ていて、もう夏真っ盛りを全員で醸し出しているかと思いきや、視線をそちらに無理やり向ければ、香山だけが長袖だった。いつも通りの、寝癖のついた黒髪で、今日は赤くて小ぶりのピアス。
「果歩ちゃん、海行かない?」
マリが唐突にそう切り出したので、私が聞き返すと洋二が補足するように、
「全員の合う日程出し合って、海行こうって昨日、なってね。海の家は喫茶店ではないけど、ちょっとそういうのも有りなんじゃないか、って。鈴木さん、都合どう?」
と言う。それで私も、
「いいですね。ちょうど、彼と別れたところで、出来るだけ家に独りで居たくなくて」
とつい、うっかり、零してしまったのがいけなかったかもしれない。
マリと穂波がわっと嬉しそうに、表情は笑いながら私へ注目と興味の目を向け始め、私は押し返す質問攻めにあい、あつ子と共有している勝太よりも、親と共有している勝太よりも、一番本物の勝太に近い話をしてしまうことになってしまった。
それで香山はどういう反応をするのかと見てみれば、飄々としていると思ったら意外な行動をとった。
香山は始めは小さく何か唸っていて、だんだん大きい声で唸った。それでマリと穂波が黙ることになり、いつも通りの香山のボリュームで、ぽつりと、
「洋二、メガネ変わってねー?」
と話題を切り替えたのだった。
洋二は嬉しそうにメガネについて喋り始め、私は内心寂しかった。
それで私は柄にもなく、
「昨日知らない男の人と寝まして」
と口をついた。
マリと穂波がきゃあきゃあ黄色い声で面白がり、洋二はメガネを直し、香山だけが静かな声で、
「それで?」
と訊いた。
「とてもいい夜でした」
私が複雑な気持ちでそう表現すると、
「浮気したんだ。例の怖い男、かわいそうじゃねー?」
といつもよりは大き目な声で言うので、
「もう別れたからいいの」
とやり返す。
「でも、どうせ果歩さんのことだから、一方的になってるんでしょ」
「そ、そうだけど……」
「じゃあ、やっぱり浮気だ。どんなやつ?」
「王子みたいな人です、香山くんとは全く正反対の、背の高い」
香山はそこで突然立ち上がり、足を机に思い切りよくぶつけて、蹲った。
静まったかと思えば、
「おい!」
大きな声がした。それはよく聞き覚えのある声だった。
勝太の声だ。
私は瞬時に小さくなった。心臓が跳ねる。
勝太が、私の部屋の合鍵を持っていたことを思い出した。
部屋に入れば、純喫茶同好会の存在がわかるものはいくつかあったのだ。
あの日、香山と行った猫王子のチケットや、ふみ子さんにもらったサイン入りの小さな絵や、刺繍が入ったおしぼりをひとつプレゼントされたりも、していた。
小さくなった私の耳に、手がのびた。
香山が、私の耳をふさいで、目の前には香山の眠そうな目が並んでいる。
小さくなった私の心に、香山が触れていた。
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