第17話 『非現実』は、数ある『現実』の一つ
■その17『非現実』は、数ある『現実』の一つ■
少し前までは、森の中は非現実で、外が現実だった。
確かに、『知識の樹』となった古き魔女達や、見知らぬ解毒方法、何より、再び自分を見つめてくれた目の覚めるような緑の猫目と、通常の温もりに戻った小さな体。
森の中は、不思議で優しい時が流れていた。
しかし、それらも現実だと知った。
だから余計に、森の外の現実はシオンにとって、リュヤーやアデイールにとっても、辛いものだった。
シオンの父レオンとギャビンの争いに、ギャビンが犯人と思われる3名の斬殺された遺体。
レオンは自室にこもったまま朝夕の食事にも現れず、シオンはその影すら見ていない。
ギャビンもその行方が分からずじまい。
リアムの見立てでは、処罰を恐れての逃走ではないだろうと言っていた。
いつもなら、キャンキャン騒ぎながらもギャビンを心配して探し始めるアデイールも、森から帰ってきてからは時間があれば庭の薔薇の中にいた。
「シオンのお父さんとギャビンが喧嘩した挙句、ギャビンの居所は知れず・・・
邸の敷地内には街の人の死体が三人分。
これ、報告書を書くのか?どうやって?」
リュヤーの泣き言はもっともで、シオンも頭が痛いところだった。
無駄にインクと紙と時間を消費しているだけだった。
少し開けた窓からはほんのりと冷気を含んだ乾いた風が、薄いガラスからは柔らかくも芽吹きの月より澄んだ朝日が、処務室の机で寝ずに書類整理に追われる二人の救いだった。
■
薔薇の花弁一枚一枚は朝露が乗り、さらに色濃く輝き、まだ夜の香りを残した早朝の風は、薔薇の豊かな甘みを乗せて周囲に届けた。
燃え尽きる直前の、最後の煌めきは、虫はもとより人々も魅了する。
シオンが手塩にかけた薔薇の園に、寝付けずにいたアデイールは、素足のまま寝巻に外套を引っ掛け出てきた。
髪も結い上げず、肌の張りも無く、いつもは凛としている緑の瞳も、その下にくっきりと隈を作り、今日はぼんやりと、ただただ薔薇を見ていた。
足の裏から、体温が大地へ取られるのを感じながらも、アデイールはイネスの話を反芻していた。
『自然の中で、人間は特別なモノではなく、他と同じで一部に過ぎないんだよ』
人間も虫も動植物も、全て自然の摂理の中でその命を燃やしている。
しかし、自分の命は約束されているモノではない。
父と呼ぶ人の、国王という地位のある人物の気持ち一つで、いとも簡単に消されたり、これまでと全く違った環境に置かれてしまう。
それも、自然の摂理というのだろうか?違う、呪縛だ。
ただ、父の人生の駒の一つに過ぎない。
「違うわね。
今まで好き勝手やらせてくれていたのは、私に興味がないからだわ。
・・・駒にもなっていない」
言葉を発したのは、森から戻って初めてだった。
そのせいか、小さな小さな呟きでも、声が掠れた。
「こうして生きているだけ、まだ幸せなのかしら・・・」
口元が、自虐的に歪んだ。
「幸せだ」
独り言に、答えが返ってきた。
その声は優しいけれど、呆れているようにも聞こえた。
「生きていれば、上手い飯が食える」
アデイールの隣に腰を下ろし胡坐をかくと、リュヤーは胸元から皮の小袋を取り出した。
「ほい。
うまい飯とまではいかないけれど、空きっ腹にはちょうどいい」
掌に数個の豆を乗せ、アデイールの方へ差し出した。
「・・・これは?」
「煎り豆。
立ったまま食べるのは、マナー違反じゃないの?」
少し腰を曲げたアデイールの腕を取り、自分の胸元の方へと引っ張った。
その反動で、豆が地面に落ちた。
その体はとても軽く、薔薇の香りとはまた違った甘い香りがリュヤーの鼻先をくすぐった。
「レディーへの扱いじゃないわよ」
「では、レディー。
おみ足が汚れますし、何より体が冷える。
冷えは、良くないんだろう?」
途中まで気取っていたが、最後はいつもの調子に戻った。
言いながら、リュヤーはアデイールを胡坐の上に座らせた。
金の髪が、視界の半分以上を塞いだので、ちょっと頭を左に傾げた。
「はい、綺麗な豆」
再度、小袋から煎り豆を出し、半ば強引にアデイールの手に握らせた。
そして、地面に落ちた煎り豆を拾うと、大きな口にほおり投げた。
「頭いい奴は、考えるのが好きだな。
それとも、自分の心が信じられない?」
両腕を後ろに置き、頭ごと上半身を少し倒した。
リュヤーの視界に、今まで見たことのない景色が広がった。
赤・オレンジ・黄色・白・・・色も大きさもそれぞれ違う薔薇の花が、それぞれはバラバラなはずなのに、計算された一枚の絵画のように纏まっていた。
「あら、貴方も嫌味なんて言うのね。
・・・でも、その通りかもしれないわ。
今まで考えないように、感じないように蓋をしてきたのに、強引に全開にされた・・・のかしら?」
アデイールは薔薇を見上げたまま、煎り豆を一粒口にした。
パッと、口の中に香ばしさが広がり、すぐに鼻から抜けた。
微かに感じる甘みは、口の中の水分を含むたびに、その控えめの甘さを意識させた。
「オレは、物心ついた時から国内外の争いごとを見てきた。
他国からの侵略や内乱で、常にどこかで血が流れ、命が消えていく。
それが、当たり前の国で生まれて育った。
だから、いつ自分の命が、誰の手によって消されてもおかしくないと覚悟はできてた。
出来てはいたんだ。
けどさ、一番信頼していた者の反逆で両親が殺されて、兄弟や親しい人の生存も分からず、人攫いに捕まって・・・
このまま、奴隷として人生終わるのかなぁ~・・・
とか、内臓取られちゃうかな~・・・
なんて思っていたけれどさ」
「海に飛び込んで、正解だった?」
「正解だね」
優しい問いかけに、リュヤーは即答した。
「五体満足で生きてるし、アデイール達に出会えた」
腕を地面に投げ出し、上半身を完全に倒した。
色とりどりの薔薇の中に、青い空と白い雲が見え隠れしていた。
「そうね・・・
生きているものね」
もつれた糸が解けたように、アデイールの体はスルスルとリュヤーの上に崩れ落ちた。
「ア、 アデイール、大丈夫か?」
急に倒れこんできたアデイールの頭を反射的に抱き留めたはいいが、どうすればいいのか分からず、混乱を隠せなかった。
そんなリュヤーの心臓の音が早くなったのを聞いて、アデイールは少しほほ笑んだ。
「私もお兄様も・・・
ここに居なかったかもしれない・・・
森の摂理に取り込まれていたかも・・・
私がエヴァだったかも・・・」
力強く規則正しいし心臓の音に、アデイールの瞼はあっという間に下りた。
ポツリポツリと零される言葉に、リュヤーは
そう言う事か。
と呟き、規則正しい呼吸を確認して安堵すると、小さな頭を両手で交互に撫で始めた。
「でも、ここに居る。
清楚な娘、気高い娘・・・アデイールは、君しかいない。
お休み、アデイール、良い夢を」
リュヤーの囁きがアデイールの心に届いたのか、瞑った瞳の縁に光るものがあった。
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