第15話 開かずの扉
■その15 開かずの扉■
あの人は、初恋だった。
物心ついた時から、あの人の笑顔はどこか寂し気で、自分の大切な息子を見守る瞳はとても暖かかったのを覚えている。
そんな風に無条件に見つめてもらえる幼馴染が羨ましくもあり、いつしか、もっと特別な感情でその深い青の瞳に映りこみたいとも思った。
息子の友人として歓迎してくれているのを良いことに、肉付きの悪いそれでも柔らかな手を握ったり、ふざけたふりをして、うっすらとそばかすのある白い頬や、柔らかでゆるくウェーブを描いた月色の髪に触れたりもした。
心臓がこれでもかというほど跳ねたのは、あの頃のあの人との経験でしかなかった。
村の邸へと馬を走らせながら思い出すのは、一面の薔薇の庭でほほ笑むシオンの母上。
俺の初恋の人で、今でも俺の心を離さない人。
どんなにいい女を抱いたって、心ではあの人を求めていた。
魔女狩りがあったあの夜、幼心にあの人に何かあったのだとは分かっていた。
そして、あの夜を境に、あの人には会えなくなった。
元々、体が弱い人だったが、あの夜を境に、一切部屋から出なくなった。
自分の中の青臭い部分を覗くのは、あまりいい気分じゃなかった。
あのまま魔女の話を聞いていたら、この青臭い、悲しみとも怒りとも、何とも言えない気持ちの持って行き場がなくなって・・・
サーベルを抜きそうになったら、オレが止めるから。
そう、リュヤーが言った。
初めて出会ったとき、挨拶もそこそこに乱暴な扱いを受けたのに。
俺に切られるとは思わないのだろうか?
馬上で受ける風は湿度を含まず、心なし冷たさを含み始め、収穫の時期が間近だと教えてくれる。
左右に視線を動かせば、月明かりで輝く麦の穂の海が見えた。
それは、昼間の太陽の下での力強い輝きとは違い、とても静かな『生』を感じさせないものだった。
「お前たちに『麦』と言う名がなくても、人間以外は困ることはないんだよな」
植物も動物も。
自然界のあるものは何かにとっては毒であり、何かにとっては薬である。
では、あの病はどうだというのだ?
あの病は人間には毒でしかない。
人間以外の何かにとっては薬となるのか?
そんなことを考えながら静まり返った夜の村を進み、シオンの邸の馬房に馬を繋げた。
邸の中に入ろうと、裏口に回る途中で人の気配に気が付いた。
どうやら、ハエは一匹のようじゃなかったらしい。
「雇い主は誰だ?」
農夫の格好をした男の背後に立つと、邸を見上げ、無防備にも喉を大きく伸ばした瞬間を見逃さなかった。
埃だらけのパサついた髪を鷲掴みにし、サーベルの刃を皮膚がピンっと張った喉元に当て、冷めた声で囁いた。
「か、帰る前に、しばらく邸を見ていろと・・・」
少しでも動けば、サーベルの薄い刃は張り詰めた皮をいとも簡単に裂くだろう。
それは一気に深く潜り込み、大量の血が噴き出し、命を消されることを男は分かっているはずだ。
「誰に言われた?」
昼間の襲撃に来た内の一人だと分かると、自然とサーベルを構える手に力が入った。
「こ、殺さないでくれ」
赤い筋が付いた。
サーベルの圧が掛かったのを感じて、男は情けない声で話を続けた。
「背中の曲がった、年老いた男が言ったんだ。
夜になれば魔女が動き出すから、様子を見ておけって」
ユーグか。
確か、昼間の襲撃の中には居なかった。
・・・どこで見ていた?
「何人いる?」
「さ、三人」
「で、何か見えたのか?」
「まだ・・・
何も・・・」
言い終わる前に男の喉を深く切り裂いた。
鮮血を浴びる前に、その体を剥き出しの地面に押し付けると、見る見るうちに黒い水溜まりが出来た。
その中でビクビクと痙攣する肉塊を見下ろしながら、リュヤーを思い出していた。
「ここにお前がいたら、本当に止められたか?」
街で、情けをかけて命を奪わなかったから、秘密がばれ始めた。
いや、叔母上は初めから分かっていたのだろう。
血の付いたサーベルをそのまま持ち、裏口から邸の中に入ると、一目散に邸の主の部屋を目指した。
部屋のだいぶ手前から、いろいろな花の香りが鼻をくすぐり始めた。
この館の主が帰った証拠だ。
シオンの父は、渡航から戻ると、部屋の『香り』を代える。
それは生花の物ではなく、実家の店で扱っているポプリと似たような香りだ。
部屋に近づく程、その香りはきつくなった。
「魔女なんかじゃない」
息を整えながら、ドアノブに手をかけた。
いつもはすっと思い出されるあの夜の寂しげな笑みが、今は花の香りに邪魔されて口元しか出てこない。
俺の髪を撫でてくれた手は?
俺の名前を呼んでくれた声は?
映りこみたいと願っていたあの瞳は・・・
匂いが、乾燥した花びらが渦となって、思い出を隠す。
「お帰り。
シオン達はどうした?」
握ったものを回して、引っ張るだけ。
その動作がなかなか出来ずにいると、聞きなれた男の声が背後でした。
「王子から経緯は聞いてはいるが、シオンはどうした?」
この邸の主でシオンの父であるレオン・エルマンは、身長こそ俺より少し低いものの、体全体を海に負けぬよう鍛え上げられ、年齢を感じさせない。
が、いつのころからか、気が付いたら肩下まで伸ばした固めの髪は全て白くなって、青い三白眼の左側には、金のフレームの方眼鏡が定着していた。
「・・・魔女の森に」
髪をまとめている赤いリボンが、あの人とおそろいの物だと分かっているから、憎たらしい気持ちになる。
「そうか。
戻りは?王子が報告を待っている。」
すっ・・・と、レオンは有無を言わさぬ声で、右手で階段を指した。
あの日以来、この人はこのドアを絶対に開けさせないし、人の前では自分でも開けることはない。
それがたとえ息子のシオンの前だとしてもだ。
総てを知っていて何も話さない・・・この男は、総て隠したまま、終わりを迎えるつもりだろうか?
あの人を独り占めしたままで。
「今、貴方の前に立っているのは、シオンの友人のギャビンじゃぁない」
そんなのは、ズルい。
「一人前として、見ろと?」
「そう。
一人の男として」
レオンと視線を合わせたまま、ドアノブを握る手に力を入れ、軽く回す。
「そうか」
レオンは短く呟くと、腰のサーベルを抜いて構えた。
「一人の男としてそのドアを開けるのなら、容赦はしない。
お前も知っているだろう?
私もモノに執着しないことを。
ただし、その部屋の中にあるモノは別だ。
それだけは、誰にも譲らない」
言い終わる間に、レオンが大きく切り込んできた。
その剣先はドアノブを握る俺の手を狙い、容赦なく振り下ろされた。
「そこまで」
反射的に手をひっこめた瞬間、廊下の影からリアムが姿を現した。
「これ以上、血生臭いのはやめてくれ。
せっかくシオンが精魂込めて咲かせた薔薇が台無しだ。
ギャビン、身を清めて報告に来るんだ。
ついでに頭も冷やしてこい」
神経質なリアムの声が、頭の隅で響いた。
レオンの剣先がドアノブにかかっているのを見て、それでもこの機会を逃したくない、今ここを開けないと後悔すると思った。
「ギャビン、手を引くんだ。
いずれ夢は冷める。
それまで、開けないでやってくれないか?」
動かない俺の手を、サーベルを握りしめた血だらけの手を、リアムが握った。
その言葉に、レオンの瞳に、一瞬だけ悲しみの色が見えた気がした。
「・・・ハエがあと二匹いる。片づけてくる」
いずれ覚める夢ならば、俺がこの手で覚ましてやる。
俺はリアムの手をそっと解いて邸の外に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます