第9話 青い瞳の男を描く女
■その9 青い瞳の男を描く女■
この街は、周囲の街と同じ匂いが漂っていた。
排泄物はそこいらに撒かれ、行き交う人々の服は薄汚れカビの匂いがする。
金銭的余裕のある者は、その匂いを花の成分を抽出した水を瓶に詰め、霧状にして身に振りかけ悪臭を消していた。
人々は朝起きて夜寝るまでよく働き、その対価の三分の一を税金として国に採取される。
街の中央に行くほど多種多様の店が軒を並べ、中央の大小の噴水では女たちが衣服の洗濯や野菜洗いに精を出し、綺麗に敷かれた石畳の上をロバが荷馬車を引いて行き交う。
土がむき出しになった街の外れでは、畑仕事を生業にしている者が多かった。
ギャビンとリュヤーは会話もなく、ゆっくりと馬で街の中心まで進んだ。
すれ違う女性たちはギャビンを見て振り返り、頬を赤らめたり、名前を呼んで気を引こうとしていた。
ギャビンはそんな声にも視線はまっすぐ前を向き、片手を軽く上げて流していた。
ギャビンの生家は賑わう中央から少し外れるものの、メイン通りに面した場所に店を構えていた。
食品こそ扱っていないが、小さな物は髪留めやシルクのリボンから、大きな物ではサイドテーブルまであり、主に他国からの輸入品を扱う店だった。
客層は裕福層が多く、時には遠く離れた街の貴族からも声がかかることも暫しあり、とても繁盛していた。
また、乾燥させた花や葉を使ったポプリも多く扱っているため、店内は花の匂いに溢れていた。
街中の匂いに辟易していたリュヤーは、店内の匂いに安堵した。
そんなリュヤーを、周囲は見ている。
恐れる者、忌むべき者・・・その視線の意味がよくわかり、リュヤーは俯いてギャビンに駆け寄った。
前にギャビンに言われた事と、出る前にアデイールの言ったことの意味が良くわかった。
店は使用人の出入りも多く、数ヶ月に一度、フラリと立ち寄るギャビンにはその全ての者を把握することは難しかった。
しかし、生活の拠点を隣村に移す前、幼い頃から店に勤めている数少ない者の顔は覚えていた。
使用人たちが忙しく行き交う中、私服のギャビンは裏口から入るとその場の雰囲気に溶け込み、スルスルと住宅部分に進むと、二階の一番奥の部屋の前に立った。
「ご機嫌いかがで?
マチルダ叔母様」
ノックの返事を待たず、ギャビンはドアを開けた。
「変わりはない」
少し掠れた、女性にしてはトーンの低めの声が、ギャビンの行動を咎めるでもなく、素っ気ない返事を返した。
大きめの窓から差し込む光の中、所狭しと画材が置かれ油絵独特の匂いが充満する部屋の真ん中で、その女性はイーゼルにキャンパスを乗せ、とても良い姿勢で絵を描いていた。
緩やかに結い上げた赤茶色のくせ毛には所々白いものが混じり、こげ茶色の一重の目元には細かい皺が多々刻まれている。
上を向いた小さな鼻をのせた小さな顔は肉付きが薄く、エラが張っているのがよく分かった。
マチルダ・ノウルはギャビンの父の妹で、日がな一日絵を描いていた。
「相変わらずの様ですね」
リュヤーは空いたドアに手をかけたまま動けなかった。
そんなリュヤーをかまうこと無く、ギャビンは遠慮なく部屋に入り、ズカズカとマチルダの肩越しに絵を覗き込む。
そして、少し馬鹿にした様な呆れた様な口調で言った。
そこには、肩下まで伸びた焦げ茶色の髪を赤いリボンで纏め、精悍な顔つきに、青の三白眼が印象的な一人の男が描かれていた。
「何用だ?」
そんなギャビンの態度にも動じること無く、マチルダは筆を動かす。
「ユーグは?
右足の調子はどう?
元気にしてる?」
吹きかけた薔薇の香りと体臭が混じったマチルダの匂いは、ギャビンにとっては気になるものではなかった。
むしろ、ギャビンに身を摺り寄せてくる女達より、良い匂いだった。
「さあ?
私は基本、この部屋から殆ど出ないのでな」
「職場で、ユーグらしき人影を見たんだ。
また懲りもせず、何か嗅ぎ回っていたりする?」
ギャビンは描かれた男を見ている。
青い三白眼が、魂を持っているかのようにギャビンを見返していた。
「私の世界はこの部屋だ」
マチルダは髪の一本一本に魂を込めていく。
そうは言うものの、マチルダの爪は美しく手入れがされ、エプロンの下のドレスも黴臭くはない。
髪も結い、薔薇の香りを吹きかけ・・・そんなマチルダを、ギャビンは好ましく思っていた。
「何処に行こうが、誰と会って何をしようが叔母様の勝手だけど、俺の邪魔はしないでよ」
ギャビンは口調を変えること無く、腰に携帯していた短刀を素早く抜き取ると、勢いよく絵の頭に突き刺し、力任せに一気に下げた。
キャンバスが絵の男の代わりに断末魔をあげ、その顔は真っ二つに引き裂かれた。
「俺は、欲しいものは必ず手に入れる主義なんだ」
動きを止めたマチルダの耳元に囁くと、ギャビンは振り返ること無く部屋を後にした。
ドアが閉まる音を聞いて、マチルダは動揺すること無く新しいキャンバスをかけ、パレットナイフで下地を塗り始めた。
「ユーグ、報告を」
淡々とした行動と、淡々とした口調は、狭い部屋の中に響いた。
「あの者は、もう人間ではないです」
しわがれた初老の男の声が、闇の中で答えた。
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