第5話

 だいだらぼっち様が向かったという山の麓の分れ道にいねと飯豊が差し掛かった時、後ろから

「おーい、待ってけれ」

 という声が追って来た。

 磐根だった。飯豊は振り向いたが、いねは連れない素振りで振り向くこともなく足早に山へと入っていった。かといって磐根を追い返すこともしなかった。ついてきたいなら勝手にするがいい、とでもいうような素っ気ないその態度に磐根はがっくりとしたようだが、それでもとぼとぼと二人の後を追った。

 なぜ、いねがこれほどかか様のことに執着するのか、磐根には理解できない。磐根と逃げようと決めた時、いねはかか様と二度と会わないと覚悟をしたのではないのか?もしそうでなければ・・・いねの心はまだ自分に定まっていたわけではないのか、と磐根は思ってしまうのだ。


 いねたちが仮住まいをしている山に比べ、その山道は狭く険しかった。冬になると杣人そまびとたちがどこやらか現れ、いねたちの住む里を避けるようにしこの道を使って猟場を往復する。彼らは矢と刃物で兎や鹿、時には熊でさえ仕留めるのである。何日もかけ、猟場を彷徨い、仕留めた獲物はその場で解体し持ち帰るのであるという。

 そんな、遠く深い山へと通じる道であった。いねたちの住む里人は滅多にこの道を使うことはない。まだ秋ではないから良いものの、冬ごもりする前には狂暴になった熊も出るし、時には狼も出るという噂のある道である。

 その道を三人は黙したまま登っていった。登り始めた時はまだ低かった太陽が中空に差し掛かった頃、右側に深い谷が開けた。いねが谷に落ちないように注意深く道を歩いていたその時、

「あそこを見よ」

 後を歩いていた飯豊が声を上げた。足元だけを見ていたいねと磐根は気付かなかったが、山の左手に何やらちらちらと見慣れぬ青色のものがはためいている。

「あれはなんじゃ」

 磐根はてのひらを両目の上に据え、すがめるようにして眺めた。

「布のようじゃが・・・」

 うむ、と頷くと飯豊は

「ちょいと、登って見てみるか?」

 そう言うと左手の山の枝に手を掛けた。

「あぶねぇ」

 いねが止めた。左手は崖ではなく、なだらかな斜面だがもし足を滑らせでもしたら、勢いそのままに右手の崖から転げ落ちてしまうに違いない。

「吾は大丈夫だ。登りなれているからの。汝らはそこで待つが良い」

 そう言うと飯豊は器用な手捌てさばき・足捌きで体を地面に押し付けるようにしてするすると坂を登っていった。取り残されたいねと磐根は目を合わせることもなく、どちらも心配げに飯豊の登っていく姿を見守っていた。やがて草木の影に飯豊の姿は吸い込まれていった。

「おっちゃん、見えたか?」

 いねの心配げな問いに暫くの間、答えはなかったがやがて、細かい土くれがぱらぱらと振ってきて飯豊が同じような格好をして降りてきた。

「何であった?」

「人じゃった」

 飯豊は低い声で答えた。

「人?、こげなところまで飛ばされたのか?」

「うむ・・・」

「で・・・誰であった?まさか・・・」

 いねの語尾が震えた。かか様はあのような着物をもってはいなかったが、だがもしかして・・・。だが、飯豊は

「あれはの・・・、国主であった」

 と答えた。

「国主様?」

 思わずいねと磐根は目を見合わせた。

「おっちゃんは、国主様の顔を知っているだか」

「むろんじゃ」

 飯豊は頷いた。

「吾のてて様のあだじゃもの」

「そうか。で、どげにして亡くなられたのじゃ?」

「太い木の枝に胸を一突きされておった。それでそのまま木にぶら下がっておるのが見えたんじゃ」

「まあ・・・」

 いねは口をおおった。

「何も憐れむことはない。あの様子では木の枝一突きで絶命じゃ。もず生餌いきえのようなものじゃ。だが・・・あれではさして苦しむことはなかったであろう。それが吾には悔しい。悔しいが、もう手の届かないところへ行ってしまった」

 嘆息たんそくするように飯豊は言い放つと、

「これで吾がここに居るわけの一つがなくなった」

 と呟いた。その呟きを聞いて

「おっちゃんは、国主様の御命を狙うためにここにおったのか?」

 いねは尋ねた。

「うんにゃ」

 飯豊は首を振った。

「吾一人で命を狙うのは無理じゃ。だがの、いつかはろくな死に方をするめぇとは思っていた。その死にざまを見届ける、それが吾の望みだったのだ」

「そうけ」

 いねは溜息を吐いた。迂遠うえんではあるが、地のものが衆をごうせずに国主に歯向かっても勝てるわけはない。

 飯豊は上の歯の欠けた口を開けてにやりと笑った。

「その光景は見ることができた。満足じゃ。とは言っても、それを役人に届け出るつもりは、ね。汝らもするな」

「なぜだ?」

 磐根が尋ねた。

「役人などに届け出たら碌なことは、ね。下手すれば疑われるだけだ」

「ああ」

 磐根は頷いた。己らが国主をしいしたのではないか、などと言われたら抗弁することはできない。例え尋常でない死に様であろうと、疑いをかけられることがないとは言えぬ。そうやってあらぬ疑いを掛けられた者たちを磐根も何人か見てきたのだ。

「どうする、まだ先に行くか。吾は構わんが」

 飯豊がいねに尋ねた。

「かか様は・・・生きていらっしゃるじゃろか?」

「分からん。天へ召されたのかもしれん」

 飯豊は答えた。だが、国で並ぶ者のない権勢を誇った国主でさえ惨めな死を遂げた、という事実はいねの心に思いもよらぬ衝撃を与えていた。

「もう・・・仕方ないの」

 唐突にいねは呟いた。

「いいのか?」

 飯豊がいねの顔を覗き込むようにした。

「だって・・・」

 いねは言い淀んだ。もしかしてかか様もだいだらぼっち様にもずの獲物のように木に刺されておるかもしれん。かか様がそのような死を迎えたところを見たいのか、と言われれば見たくない、といねは思った。

「そうか・・・」

 飯豊が言った。

「この道はこの先、益々ますます険しくなる。女の足ではきつい。下手をすれば汝の命も危うくなるかもしれん。引き返すか」

「う・・・ん」

 いねは頷いた。

「それとの・・・」

 飯豊はいねと少し離れて立っている磐根とを交互に見ると、

「そろそろ仲直りするんじゃ」

 と諭した。

「だいたいはな、磐根が良くない。汝は何か勘違いしておらんか?」

「吾がか?」

 磐根は心外とでも言うように目を見開いた。

「そだ。汝はいねがかか様を捨てたと思っておる。捨てた母をなぜそれほどまでに探すのかと、考えておった。いや、今でもそう考えておろうが。それが誤りのもとじゃ」

「・・・」

「いねはかか様を捨てたのではない。やむにまれず汝を選んだのだぞ。その汝が、思い人であるいねが、かか様のくびきから外れてもなお同じように考えておる。そこが誤りだと言っておる」

 磐根は飯豊の言葉を噛みしめるようにして考えていた。

「いね、吾が間違っておった」

 ほとばしるように磐根は言うと膝をついた。

「飯豊の言うとおりじゃ。吾は何か考え違いをしておった」

「ええんよ。あんちゃん」

 いねは少しだけ体を動かして磐根に寄った。

「吾だって・・・。こうして、かか様を諦めるんじゃもの。悲しいけど、諦めるんじゃもの。吾はそんなに強くない。人の事を責めるほど強くない」

 そう言うといねはしくしくと泣き始めた。

「そげなこと言うでね」

 磐根がいねの頭に手を置いた。

「里の中でここまで来たのは汝だけではねか」

「その通りじゃ」

 飯豊が頷いた。

「でも・・・それは」

 磐根と共に逃げる時に母との縁を切ろうとした。その思いがむしろ後悔の念となって自分を突き動かしたのだといねは思ったのだが、それをうまく説明することがいねにはできなかった。

 肩を落としたまま一行はもと来た道を辿たどって山裾へと向かった。


 山を下りるとよその郡に行くと言っていた長が山裾の路に、旅支度姿で、つくねんと立っていた。飯豊たち一行を待っていたようであった。

「何か見つかったか?」

 飯豊が率先して首を振った。

「だめじゃった。もう少し奥に行けば何かわかるかもしれんが、女子の足では無理だ」

「そげじゃろう・・・」

 長は自分の言った事が正しかったという得意げな表情と、困惑のないまぜになったような表情で三人を見た。

「長は・・・まだ行かんのか?」

「いやな、お主たちが何かを見つければそれを持って話に行こうと思っておったんだが。なんせ、とりとめのないことだからの」

 長は元気のなさそうな声を出した。

「確かに。ご苦労な事で」

「いや、まあ」

 長はそう言うと少し残念そうに、

「待ち損よ。おーい、竹、行ぐぞ」

 と声を張り上げた。道に沿って立っている青いかやの向こうからがさごそと音がして若い男が一人現れた。やはり旅支度の形をしている。長の付き添いであろう。

「ほんに、ご苦労様で。気を付けて行きなされ」

 飯豊の言葉に他の二人も長に頭を下げた。

「では、そうするか?ところで・・・」

 長は磐根といねを交互に見た。

「汝らは、めおとになるのか?」

 磐根といねは長の言葉に慌てたように目を見交わした。

「まあ・・・何にせよ、主を失った土地ができてしもうた。主らがめおとになるならまずいねのかか様の土地を耕すが良いが、耕作する約束をすれば、新たな土地を与えよう。但し、この・・・」

 長は飯豊を指した。

「この男を親とすればだがの。里の娘の亡骸なきがらを拾った男よ。その勇気に免じてな・・・。と言うか娘の供養に、よ。里の衆もみな賛成した」

 長はそう言った。

「この地の目を記録してあった木簡・竹簡は全て吹き飛んでしまった。新たに作らねばならん。そのまぎれにすることができる」

 それだけ言うと、

「竹、行くべ」

 とさっさと道を歩き出した。


「なんも気遣うことは、ね」

長を見送ると飯豊は呟くようにそう言った。

「汝らがしたいようにすればいい。吾のことなど気にするな」

「だども・・・」

 長は飯豊をこの里に正式に迎え入れてもいいと言ったのだ。

「吾には残してきた里もある。今少しあの場所で気楽に過ごしても構わねぇ」

 住んでいる山の方を見た飯豊が寂しげに見えたのはいねの気のせいかもしれなかった。

「考えてみるべよ」

 いねはそれだけ言った。

「これからどうする」

 磐根が尋ねた。日はゆっくりと西の方へ傾いている。

「吾は帰る」

 飯豊がぽつりと言った。

「汝らは好きにせよ。もう、隠れている必要はねぇみたいだ」

「おっちゃんも吾の家に来。今日は山を登ったから疲れておろ?碌なもんはないが、食い物もある」

「そだ、そうするがよかよ」

 磐根も賛同した。

「だども・・・」

 飯豊は迷ったように二人を見た。一人暮らしをずっと続けてきた飯豊も一度、人と暮らして人恋しさが出てきたのかもしれなかった。なんだかそんな飯豊がいねには哀れに思えた。

「なんも気遣う事は、ね」

 かか様のことは一瞬いねは忘れた。飯豊がさっき自分に掛けた言葉を真似、茶目っ気たっぷりにそう言うと、いねは微かに笑った。

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