第2話

 翌日、母親に言われた通り、昼過ぎに畑仕事を切り上げ家に戻ったいねは、中で母が誰かと話している声を聞き首を傾げた。母が家に人を上げるなど滅多にないことである。聞き耳を立てると母と同年代の女性の声のようだった。おそるおそる家の中を覗くと、見知らぬ女が母と談笑していた。

 戸から入った光に、目をそばめ自分を見てくるその女に、

「ども・・・」

 と、いねは小声で挨拶をした。

「おやまあ、この御方が」

 女はにこやかに笑うと、隣にいる母を振り向いて華やかな声で言った。

「国主様のそばめになられるお方でございますか」

 生まれてこの方、「御方」などと呼ばれたことはない。それに・・・そばめ、とは何であろう。警戒する心が動いたが、そんないねの思惑など気にせぬように女は甲高い声を上げた。

「今この国での一番の果報者・・・。この御方がいねさま、そうでございましょう?」

「そです」

 母はいつもより丁寧な言葉で答えた。女はにっこりとすると、

「いねさま。お母様からお預かりした絹二匹、心を籠めて縫わせていただきました。きっとお気にいられると思いますよ」

 そう言って女は奥にあるものを指さした。そこに縫われたばかりの衣が二式、掛けられていた。

「右側が貴女様、左側がお母上のもの」

 歌うようにその女が指さしたものは、いねが今まで見たことのないほどの美しい衣装であった。真白の内衣と春の淡く生い始めたばかりの若草のような緑の上着。これが衣裳であれば、今着ているものは襤褸布ぼろぬのに過ぎない。

「きれいだこと・・・」

 思わず言葉がいねの口をいて出た。

「お召しになられますか」

 女は言ったが、

「その前に髪をかねば、うかうかしては日が落ちてしまう」

 母が遠慮がちにさえぎった。

「ああ、そうでした」

 女は笑った。

「それでは、川に・・・」


 髪を洗うのは大仕事であった。

 子供の頃は裸で川に入り、母が水の流れで髪を洗い落としてくれたが、夏でも川の水は冷たく、しばらく浸かっていれば凍えるほどの冷たさであった。 

 そんなこともあって最初いねは躊躇ったが、思い直して大人しく母の言う事を聞く事にした。母の思惑は娘を国主に捧げる前に洗い清める事にあるが、娘の心は明日手に手をとって逃げる男に、少しでも美しい姿を見せる事にある。

 機織り女が用意してくれた生成りの麻装束に着替えたいねは、連れ立って近くの河原に行った。

 手で触れた水はやはり冷たかった。できるだけ日向水ひなたみずを使うのだが、木の灰で汚れを落とし、その灰を水で流し落とにはそれなりの水量が必要だった。しばらくすれば日向水は濁り、仕方なく流れる水を使わざるを得ない。何度かしているうちに装束は次第に濡れて肌に張り付き、いねの体の線をあらわにしていった。

 やがて母が用を足しに離れると、それを待っていたかのように

「寒いですか?」

 女はいねに尋ねた。

「唇が少し青いですよ」

「んだ・・・」

 いねが答えると、女は自分が濡れるのも構わずにいねを抱き寄せた。驚いて跳ね除けようとしたが、女の力は意外と強く、そして体は暖かかった。

「無理をすると邪鬼じゃきが参りますよ」

 邪鬼とは今の病である。風邪の邪である。それを聞いていねの力がふっと抜けた。明日は磐根と逃げる日だ。風邪を引いてはなんねぇ。女はいねの抵抗が弱まったのを確かめると、

「なんて、お美しい肌だこと」

 うっとりとしたように呟き、いねの膨らみ始めた胸乳むなじに手を当てた。布がはだけて青く細い血管が浮き出ていた。それを女はなぞるように撫でた。

「御前様を国主様が求めるのは道理です。なんとも羨ましいこと。そして国主様もお幸せであられること」

 蛇のようにちろちろと胸に纏わりつく白い指を払いのけたかったが、いねは我慢した。事を荒立てたくなかった。だが心は川の水のように冷え、全てがおぞましかった。やがて母が戻って来ると機織り女は指をいねの乳から離し、乾いた薄い布をいねに纏わせ、今度は椿の油を丹念に髪に塗り込んでいった。

 椿油の匂いはいねの心を少し落ち着かせた。油を塗りこめおえた女二人は丹念にいねの髪を梳いて行った。

「美しい御髪おぐしですこと」

 機織り女は溜息を吐いた。

みやこにもこんな美しい髪を持った女人はそうはおられませぬよ」

「ですか」

 母はそう答えた。

「お母上様もきれいな御髪、さぞかし歌垣を楽しまれることでございましょう」

「あなた様は?歌垣に出られるのでございましょうか」

「もちろん」

 女は胸を張った。

「昔の野暮なものと違って、今では楽を楽しみ、酒を楽しみ、そして男の方々と戯れる・・・よきものでございます」

「楽しみだこと」

 淫猥いんわいな笑みを交わしあった二人の姿に、いねはぶるっと体を震わせた。だが、その震えを寒さから来るものと勘違いしたのか、母親が自分の着ていた服を一枚脱ぐといねの体に掛けたのであった。


「たいへんお似合いでございますよ」

 髪を洗い終え、衣装を着終えたいねを見て、機織り女は感に堪えぬような声を上げた。

「まこと」

 母も頷いた。

「さ、さ。次はお母様も」

 そう言ってもう一つの衣装を手にした女に母が立ち上がったのを見ると、いねはつくづくと自分の着たものを眺めた。袖はたっぷりと、裾は少し長く純然の白である。その上に若草色のほうを重ねるのだという。

「なんとまあ」

 といねは思った。ぜいたくな事。この姿を見たら磐根はどう思うであろうか?心の底では磐根にこの姿を見て貰いたいと思いつつも、そんなことを考えている自分の心の薄さを閉じるかのようにいねは目を閉じた。確かに、このような着物を着て、良いものを食べ、そんな生活ができたらいいとは思うが、いねの決心は固まっている。

 この着物を脱ぎ棄て、今からでもあの杉のもとへと飛んでいきたい、その心を抑えるのが精いっぱいであった。


 全てが済むと機織り女は帰って行った。夕食は相も変わらず簡素なもので、稗と粟を混ぜたものに青菜がついていただけだったが、機織り女は出来上がった着物と共に酒を持ってき、その酒を母は飲んでいた。

 久しぶりの事だった。以前は母に言い寄る男たちが酒を持ってきて、酔った隙に母を手籠めにしようとしたこともあったが、酒に酔った母は狂暴になり、口汚く男たちをののしった。そればかりか力任せに母に襲い掛かった一人の男は手近にあった洗濯石で殴られ、頭から血を流して這う這うの体で逃げ帰った。いねは家の隅でその様子を恐怖に震えながら見ていたのだった。

 以来、母に酒を持ってくる者はなかった。

 男なしで酒を飲む母は上機嫌だった。

「いね、あの機織り女はつる、と言う名じゃ」

「だか・・・」

 いねは相槌を打ったが、女の名前と共にいねの乳房を触って来た女の指の感触が蘇ってきた。俯いたいねに、

「つるは以前みやこに居った時、国主様のもちものだったそうだ」

「もちもの?」

 いねは眼を上げた。

「国主様の女だったということよ」

「・・・」

 そして、きっとつるという女は捨てられたのだ、といねは思った。母のいう事などあてにならぬ。自分も母の言うとおりにすれば好きでもない男にもちものにされ、そして捨てられていくのだ。だが、母親は、全く別の事を考えていた。

「もちものではなくなったが、国主様の庇護のもとで腕ひとつで暮らしていける。たいしたものだ。男はそうでなけりゃならね。それに比べてここらの地の男のなんて情けねぇこと。女に食わしてもらっている奴もおる。それに比べ良いものを食い、良いものを着て、歌垣にまで出れる、そうして女を食わせるのが男の甲斐性と言うもんだ」

 いねは黙った。母と論争すること自体が無駄に思えた。

「おめぇ、磐根と仲が良いそうだな」

 はっと息を呑んで、いねは母を見た。酒のせいか、母の眼は爛々らんらんと輝いていた。まるで獲物を見つけたやまいぬのような眼であった。

 どうして知っているのだろう?

「おめは隠しているつもりだろうが、んなことはすぐ分かる。で、磐根はどうだ。稼いでいるか?あげな男と暮らして幸せになれるか?どころか、女を国主様に取られそうになってもなんもしねぇ。んな男衆ばっかりだ。このあたりは」

 違う、と叫びたかった。だが本当のことを言えば母は死に物狂いで止めるだろう。

「・・・んだな」

 ぼそりと呟くと母親は炯炯けいけいとした目線をいねから外した。

「男なんぞはあてにならねぇ。だが、その後ろにある力はあてになるもんだ。うまくやれ・・・」

 母の言葉はどこか哀愁を帯びていた。それが母が生きてきた、生きるための教訓だったのであろう。母はどこかで道を間違えたのだ。やがて、母は崩れるように寝入り、火を落とすといねは泡立つ心を抑えながら横になった。母の立てるいびきの音と、寝過ごしたら、という惧れでなかなか寝付かれなかったが、やがて夜の帳はいねを優しく包んでいった。


 どこかで鳥の啼く音がした。いねははっと目を覚ました。飛び起きそうになったが、それでは母を起こしてしまう。そっと体をずらすようにしていねは戸口へと向かった。戸と言っても厚い葦でいただけのものである。その戸を音をたてぬように開けるといねは、外へと這い出た。

 空はまだ明け切ってはいなかったが、東には黄色の曙光が雲を隈取り、次第にだいだい色に染まっていった。いねは足取りを速め杉の木の方へと向かった。やがて浮き出た太陽が、くっきりと一本杉の姿をぼんやりとした風景の中に大きく浮き立たせるようになった頃、いねはその杉のもとに二人の男の姿があるのに気付いた。大きく手を振っているのは確かに磐根だった。体の線で分かる。もう一人の男の方は分からない。

「誰じゃろ」

 呟きながらいねは近づいて行った。なんだか・・・二人で逃げるというのを裏切られたような気がした。

 陽の光で眩しくて分からなかったその男が、近づいてみると飯豊いひとよと呼ばれている男だと気づいた。飯豊とは梟の事であり、森に隠れ住んでいるその男がまるで梟のように滅多に姿を現さない、現わしても昏くなりかけてからということからみながそう呼んでいる。口の悪い大人や子供たちはごろすけ、とも呼んでいた。

「ごろすけ、ほーほー。どこへ行く」

 暮れかかった小路をとぼとぼと歩いて行く男の姿を子供たちがからかっているのをいねも二・三度見かけたことがあるがこんなに近くで見たのは初めてであった。

 なして?、と眼で尋ねたいねに向かって磐根は笑った。

「逃げるのに飯豊が手を貸してくれる」

 いねは磐根の横にいる男を凝視した。この、じっさまが?

 だがいねを見返した男の眼の光は思ったより強かった。はだけた腕はまだ男が壮年であることを示していた。子供にからかわれながら、とぼとぼと歩いている姿からよほどの年寄だと思っていたが、そうではないらしい。

 しかし飯豊という男は流れ者だと聞いている。そんな男が助けになるのであろうか?

が逃げたら、汝らには必ず追手が掛かる。あの国主はしつけぇ」

 男の声は明瞭で見た目より遥かに若々しかった。

「なして。しっております?」

 いねは尋ねた。

「昔はおらの国の国主だった」

 男は答えた。男が言うには十二年前、男の国ではひでりとその後の大雨で田畑は荒れ、土は流された。それにも関わらず役人は徴収を強行した。農民は種や種籾まで持っていかれ、遂に逃散ちょうさんを始めた。だが国主の対応は素早かった。土地があっても農民が逃げれば農作はできない。それを知っていて国主は逃げた農民たちを捕らえ、首謀者を刑に処した。即ち公開処刑をしたのである。

「おらは逃げ延びた」

 急に男の声はぼそぼそとしたものに変わった。

「だが、とっちゃまは捕まった。首謀していたとして殺されたと聞く」

「そですか」

 いねは項垂うなだれた。自分たちの未来に急に暗い影が差したような気がした。

「心配するな。吾が主らを暫くかくまってやる。国主はお前らを徹底的に探すであろうが、まさか吾のような物の所にいるとは思うめえ」

「だども・・・」

 暮らすだけの場所と食料があるのであろうか?飯豊は農民でさえない。どうやって暮らしているのかは知らぬが、いねは勝手にこの男は施しを受けて暮らしていると思っていた。

 流れ者は飯豊だけではない。彼らは土地を持たず、生計を持たず、施しを受け暮らし、作物ができずに施しをできぬほどに村が疲弊すれば真っ先に命を落としていった。村を抜けた自分たちの将来も同じものになりかねぬ。いねの心は更に落ち込んだ。

 だが、

「住むところと食い物は十分にある。三十日も置けば、さすがに国主も諦めるじゃろ」

 飯豊は事も無げにそう言った。うむ、と磐根は頷いた。

「心配するな。その事は確かめてある」

「ほんとけ?」

いねの問いに大丈夫だ、と磐根は胸を叩いたのを見て、飯豊は

「じゃ、行くけ?」

 と呟いた。そろそろ、村の者が起きる。ここにやって来ることは滅多にねぇが、油断はなんねぇ、と飯豊は続けた。

 杉の木のある場所から、僅かに登った鬱蒼うっそうと木々の繁っている森の一角に藪椿の密集している場所があった。冬から春にかけて小ぶりな花を咲かせているのをいねも見た記憶がある。そのあたりに立ち止まると飯豊はあたりを見回した。誰の姿もない。それを確かめると、

「こっちだ」

 と木の脇からするりと姿を消した。次いで磐根がいねの手を取って椿の中に引き込んだ。

「あれ・・・」

 短い悲鳴を上げたいねは、椿の枝に体を取られ転びかけたが、磐根が腕を抱え宙を飛ぶように木々の中へと吸い込まれた。驚いて思わず目を瞑ったいねであったが、磐根が体を地面に下ろすと、こわごわと眼を開けた。

「あや・・・」

 そこには小径が開けていた。上には木の葉が陽を遮るように密集していたが、小径の先が奥に続いているのはいねの眼にも明らかだった。

「この先に、ある」

 飯豊は静かに言った。

 何が?と眼で磐根に問うたが、磐根は笑って答えなかった。

 藪を押し分けるように道は続いていたが、やがて先にぽっかりと光の穴が開いているのが見えた。

「ついたぞ」

 飯豊といねの真ん中を、背を屈めて歩いていた磐根が振り向いて、いねにそう言った。







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