だいだらぼっち

西尾 諒

第1話

「いね・・・。かか様は元気か?」

 おどおどとした声で尋ねた男の言葉に若い女は目を伏せた。母親の話を男がする時、その理由わけははっきりとしている。

「元気さ・・・」

 力ない声で娘は答えた。農作業を終え、髪は乱れ、手も脚も泥にまみれている。石で叩いて洗ったために薄くなった布を汗が皮膚にべったりとへばりつかせてはいるが、それが女の瑞々しい胸と腰を却って際立たせていた。

 跳ねた泥が及ばなかった二の腕は白く、その奥には年相応に生え始めた腋毛わきげがさわさわと揺れている。

「元気だよ」

 そう繰り返し、顔を上げた女の整った鼻梁、締まった唇、澄んだ眼差しを受けて男は少したじろいだように顔をそむけた。

「まだ・・・。かか様は諦めないのか」

「諦めるわけなかろ・・・。向こうはこっちがもう諦めたと思っておる」

 初夏の夕日も既に力なく、二人の影を長く伸ばしている。

「もう、帰らなきゃ」

 そう言って、きびすを返そうとした女の手を男はつかんだ。

「何する・・・」

 そうは言ったが、女は掴んだ男の手を見詰めただけだった。

「いね・・・。お前は・・・おれのものだ。まさか諦めたわけじゃあるめ?」

「諦めたわけじゃね。それにあたしは、、、誰のものでもない。あたし自身のものだ」

 それは女が寝ずに一晩精一杯考えて出した答えだ。もし、どうしても無理矢理、という事ならば死を覚悟せねば、と思っている。だが、男は首を振った。

「お前はおれのものになれ、その代わりおれはお前のものになる」

 男の言葉に力なく

「そうなればいいけれど・・・」

と、答えた途端一粒の涙が女の目尻からきらりと夕日に光って零れ落ちた。

「もう帰らなきゃ、かか様が変に思う。逃げ出したと疑われる」

「ああ、そうじゃの」

 と言いつつも男は握った手を離そうとせず、女も振りほどこうとはしない。

歌垣うたがきはもうあと五日の後だ・・・。それまでにどうするか決めにゃなんねぇ」

 男の言葉に女は黙ってかぶりを振った。

「どうにもなんねぇ」

 暫くして振り絞るようにそう言った女の肩を男は優しく抱いた。

「二人して逃げないか」

 呟いた男の言葉に、女は驚いたように瞳を上げた。

「そんなことできるのか?本気か?」

「うむ」

 先ほどのおどおどとした声と真逆の決意の籠った、明瞭な声で男は頷いた。


 歌垣とは、昔は若い男女が集い互いの思いをぶつけ合う場所であった。あった、と過去形で言うのには意味がある。

 とにもかくにも本来の歌垣とは、かねて知り合っている者同士もその場で初めて知る者同士も世を明かすほどまで歌い合い酩酊めいていの中で恋を実らせる場であり、約束をたがえ、別の相手に乗り換える不埒ふらちな者もあれば、愛を貫く若者同士もあった。

 そんな歌垣が変わってしまったのは、新しい国主こきしがこの国にやってきてからだった。新たな国主の歳は四十八、今でならまだ若い部類であるがこの時代ではもういつ死んでもおかしくない老人である。しかし、年と好色はいつの時代でも必ずしも関係のないものである。

 国主は最初の年、歌垣に年寄としよりを混ぜることを命令した。年寄と言うのは都から連れてきた壮年の官吏と、国や郡の偉い役人である。若者たちは不審に思いつつもそれを受け入れたが、年寄りたちは権力をかさに、幾組かの若者たちの間を引き裂いた。次の年、若者たちは歌垣に参加することを拒んだ。すると、国主は娘たちの親を強要して参加させるように画策した。

「娘を歌垣に出せば、田畑を増やしてやろう。その分は歌垣に出ぬという男衆おとこしから田畑を差し引く」

 そう言う触れがでたのはその年で、以降若い男は歌垣に呼ばれることもなくなった。ただいう事を聞けば、歌垣に出ることは出来る。但し、大人の選んだ女には手を出すことは許されない。残りの女や大人が飽きた女、或いは国主が許して歌垣に出ることが出来る年寄の女達が相手であった。


 そして、この年、十五になったいねの親に国衙こくがの役人から歌垣に出るべく、親に命令が出た。

「いね、これは国主さまからの命令だ」

 母親は高飛車にそう言った。父親は・・・いない。生まれた時から一度も顔を見たこともない。母は父が死んだと言う。本当なのかはわからないが、いねが疑ったことはない。

さからってはなんねぇ。それも・・・お前は国主さまから直々のお声掛かりと書いてある。他の者たちとは違う」

「国主様なんて顔を見たこともねぇ」

 いねは辛うじてそう答えた。

 確かに顔を見たことはない。だが、二度ほど田畑に出ているときに大層な行列がかたわらを通ったことがある。二度目に来た時、行列はいねたちが、働いているそばの路で暫く止まっていたが、行列の中にいた男が一人、いねの方にやってきた。見たこともないきれいな着物を着て、その男はいねの耕していた畑を踏み荒らしながら、

あまよ、お前の名はなんという」

と尋ねてきた。いねは仕方なくひざまづくと、

「いねと言うがね」

 と答えた。膝が耕したばかりのふかふかの土に埋まった。その土の上のようにいねはふわふわとした気持ちがした。

「いねと言うか。国主様がお前をお呼びだ。来るか?」

「だども・・・」

 いねは畑を見回した。母はその時熱を出して床にいた。まだ畑は殆ど耕していない。

「お前、一人か?」

 首を捻った男に向かって

「かか様がおりますが、病にかかっております」

 といねは答えた。

「そうか・・・。なんだったら男衆にここを耕させるが、それなら来るか?」

 恐ろしいことだと、いねは思った。

「いんや・・・」

「そうか、母が病とあれば致し方ないの」

 男は憐れむような視線でいねを見た。

「励めよ。国主様にはそう申し伝えておくでの」

 そう言うと、男は踵を返した。見たこともない男だったが、地の訛りのある男だった。京の人の言葉は良くわからない。男の言葉はいねの耳にも明瞭だった。

「ありがとうでやす」

 そう答えて畑仕事に戻ったいねは男が行列に戻っていく姿を横目で気付かれないようにちらちらと眺めていたが、やがて行列が動き始めるとほっと息をついた。

 その日の畑仕事を終えると、いねが真っ先に向かったのは男のもとである。磐根いはねと言う名の男はその名の通り、大男で力のある男であったが、気はごく優しく、いねのことを子供の頃から大切にしてくれる兄のような存在であった。その優しい兄がいつの間にかいねにとって将来を共にする連れ合いのような存在になったのはごくごく自然の事で、磐根にとってもやはり何の不思議もないことであった。

 昼間起こったことをいねが語ると、男は心配そうな顔つきをしたまま耳を傾けた。

 一方で、時折頷く男の顔を見ながら、話をしたことで少しずついねの不安は薄まっていった。

「でも、あんちゃ。心配しないでくれ」

 話し終えるといねはそう付け加えた。

「国主さまは気まぐれでそう言ったにちげぇね。現にすぐに諦めて行っちまったもん」

 そう言っていねは笑ったが、巌根は厳しさと心配がないまぜになった表情で、

「国主さまは女に目がね、と聞いた。お前はしばらく畑に出るな」

 と言った。

「そだけど」

「畑はおれが面倒見てやる。お前は暫く隠れていろ」

「・・・わかった」

 磐根が心配してくれているのが嬉しかった。早く磐根と一緒になりたい、そう思った。子供ややを抱いて、磐根のそばにいる、それがいねの唯一の望みだった。


 だが、その望みは今、風前の灯にある。国主からの呼び出しはそのわずか三日後に来た。村の若い娘の何人かにも同様の呼び出しが来た。

絹二疋きぬにひき、それにこんな櫛まで届けて貰った女子は誰も居ねえ。いね、お前だけだ。お前は器量よしだからな。その器量は誰が分け与えたものだ?おらだ」

 母は自慢げに言った。

 確かに母はひなに似合わぬほど器量が良い。娘の頃はどんなに美しかったであろうか、と思う。自分が母の美しさを受け継いだのは確かだ。でも、今となってはそれがうとましい、物を贈って自分をものにしようとする大人がおぞましい、といねは思っている。

「なんて、奇麗な櫛だこと」

 赤塗りの櫛を手に取って母は溜息を吐いた。

「あたしがお前くらいの年に今の国主さまが来ていたなら・・・」

 それはいねも同感だった。そうしたら私は産まれていなかった。でもこんな思いをするくらいなら、生まれていなかった方がどんなに良かったであろうか?

「それに私まで招いてくれる」

 と母は嬉しそうに呟いた。

 なぜ、歌垣に母まで招いたか、と考えれば、それはいねが絶対に逃れないようにするためだ。母は男好きだが、ここらあたりで土に塗れて暮らしている男に体を与えようとはしない。自分がそうでありながら、農作業しかできない男たちを下に見ている。だから母にとって都から来た男たちとまぐわうことのできる今の歌垣は夢のような場なのだ。その事を国主の遣いは弁えているようだった。たぶん、近所の噂を聞いていたのだろう。それがいねは自分のことのように恥ずかしかった。その娘の自分もそんな女だと思われている、そうに違いなかった。

「かか様は櫛を持っているでねぇか。それはとと様がくれたものと違うのか?」

 いねの言葉に、

「あげなもん」

 と母親は顔をしかめた。

「この櫛に比べたらごみのようなもんだ」

「なら、かか様が櫛を貰えばいい。着るものもかか様にやる。私は歌垣などに行かねぇ」

 いねが言うと、母親は顔色を変えた。

「ばかなことを言うでねぇ。国主さまはお前をお望みなのだ。わざわざこげなものまで用意してくださって女冥利おんなみょうりに尽きると思え」

 言い捨てると母親は絹を手に出て行った。機織りに頼むためだ。布はたっぷりとある。一疋からいねの着物を一反で作り、残りの半分を機織りのしろとしてもまだ半分は残る。残りの一疋は母の着物になるのだろう。それを着て男に抱かれに行くつもりなのだ。

 いねは大きく溜息を吐いた。涙があふれてきそうだった。

 そんな言い争いが何度か家で起きたが事態は変わらず、機織りも終わりに近く、いよいよ抜き差しならない日が迫っている。それでも農作業を欠かすことのないいねを母親は止めることはなかった。

 母はこのところ病勝ちで、いねに農作業を頼り切っていた。いくら国主様の目に娘が留まったからと言って日々の生活がすぐに変わるわけでもないことを母は弁えていた。土に生き、夏のひでり、秋の大風に収穫を食われる農民はなまじっかのことで安心はしない。

 だがそれだからこそ、農作業の合間や日が落ち掛けた隙間を縫っていねは磐根と束の間の逢瀬をすることができる。国主の呼び出しが来た以上、病のふりをして隠れてももはや仕方ない。それならば、といねは畑に出ることにしたのだ。


「どうやって、逃げる。どこへと逃げる?」

 時を気にしながら、いねはすがるような眼で男を見た。

「いつ、逃げる?」

 最後の問いにだけ、磐根は重々しく答えた、

「陽が二つ沈んで、明けた日だ」

いねは指を二つ折ってから沈んでいく太陽を指さした。

「この陽も含めてか?」

「そうだ」

と男は答えた。

「どこへ、どうやって、はその時教える。その明けた日の朝、逃げる。いつもの杉の木の下へ

 いつもに杉の木とは二人が睦みあう場所である。束の間の休息を偸んで、ここで逢引きをしていた二人はつい一月ほど前に、遂に最後の一線を越えた。そのとき、いねは一生、この人から離れない、離れたくないと思ったのである。母があんな人間になったのは男に、父に捨てられたからだ、といねは思っている。男好きなくせに男を見下し、権力に媚びて娘を売るような母親。それに憐れみを覚えることもないではないが、同時に嫌悪というか、あんな人にはなりたくないという突き放したような思いもある。そして自分の子には父と母が必要だと思う。その父は・・・磐根をいて他にいない。

 母は国主様に仕えればそれ相応の暮らしが保証されると信じ切っているが、それは相手の胸先三寸、飽きられれば捨てられるのは目に見えている。男に捨てられた母がそんなことも分からないというのがいねには理解できない。でも言い合えば、口争いになるだけではない。母は誰かの手を借りてでも無理やり自分を国主様に納めようとするであろう。

 二人で逃げる・・・男の言葉は甘美なものだった。もし捕まって殺されてもその甘美な感情は死の瞬間まで自分を支えてくれるような気がした。


「ずいぶんとおそかったではねぇか」

 磐根と別れて家に帰ると母が不満げな顔で戸口に立っていた。病状は少し良くなったみたいだが、陽はもう殆ど沈んで顔色までは分からなかった。

 家は、穴に幾本かの柱をより合わせたように立て掛け、それを土とかやで覆った粗末なものである。国主の邸のような太い木でできた建物に住んでいる者たちはこの辺りにはいない。家の中に入れば母と顔を突き合わさずに暮らすわけにはいかないのだ。

「かか様、もうしわけねぇだ。畑が手間取っての」

 素直に謝ったのは、あと二日すれなれば男と逃げる、母と顔を合わせるのもこれが最後かもしれないという気持ちからである。存外素直に謝った娘を見て、母は、

「心配したでねぇか」

 と文句言いつつも機嫌を直したようである。

「めしは家の中にある。早く

「わかった」

 いねは答えた。めし、といってもいつも通りひえあわを煮たものだ。味の薄い汁まで飲み干すと、横でその様子をじっと見ていた母親が、

「あすは早く切り上げて、お天道様の高いうちに帰ってよ」

 と言った。

「なんでだ?」

 いねが探るような目を向けると、母は

「べべが仕上がった。髪を洗っていてやる、そんでべべを着てみるがいい」

と嬉しそうに答えた。べべ、とは着物のことである。

「国主様に仕えたら、そんなものばっかり食っている暮らしから抜け出せる。良いものも食える、きれいなべべも選び放題だ」

「そうけ・・・」

 いねは乾いた声で答えた。そんな暮らしを夢見ているのは母親の方であって、いね自身ではない。そうだ、ということを母はすぐに知るだろう。






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