第22話
『夢と知りせば 覚めざらましを』
パソコンの画面にそれだけ書いて、三十分くらい固まっている。
三限の授業、古今和歌集のテキストをぼんやりと眺めていたときに、目にとまった一節があった。眠っているときに好きな男の夢を見た女が、目覚めてから「夢と知っていれば、目覚めなかったのに」と嘆く歌。
エッセイの題材になるかもしれないと思って、とっさにテキストの角を小さく折った。
ついこないだまでは私だって、いつでも夢を見たがっていた。眠っているときには夢とは気付かなくて、起きてから後悔する。もう一回眠れば同じ夢が見られるかもしれないなんて、無理なことまで考える。
目覚めなければよかったって思うのは、目覚めた後だ。
見たいときに見たい夢を見られることなんてほとんどないし、見たい夢をずっと見続けられることなんて絶対にない。それでも願ってしまうのは、昔も今も変わらない人間の性なのかもしれない。なんて空しいんだろう。
そんな不確実な夢に頼るよりは、妥協してでも現実を見た方がいいのに。
――妥協なんて、ちょっと失礼だったかな。
いったい私はこの和歌から何を書くつもりだったんだろう。
夢から覚めたくないだなんて私が思っていたのは先日までだ。今は違う。バックスペースキーを長押しして、パソコンの画面をもとの真っ白な状態に戻した。
結局、なんにも進んでいない。
そろそろ四限の終わったサクが来るはずだ。
エッセイは、また今度にしよう。
***
夢を見たのは、ずいぶん久しぶりのように感じた。
テスト期間に入ってストレスが溜まっているんだとかテキトーに言い訳を考えてはみるけれど、自分に対する言い訳としてはお粗末だ。
目が覚めて、ああ夢だったのかと思った。
そして隣で寝ているサクを見つけて、あーあと情けなく思った。
サクにとても申し訳ないことをした。わかっている。
それでもときどきふと、これはサクと付き合い始める前からのことだけれど、翔のことは強く胸に迫ってくることかある。なぜかはわからない。あの恋はもう、高三のときに終わったはずなのに。
終わった恋だったからこそ、強く心に残ったのかもしれない。
泣きそうな気分になった頃に、サクが身じろぎして目を開けた。
「あ。おはよー、いずみ」
「んん……おはよう」
目を開けたばかりのサクは、私を見てけらけらと笑いだす。何事かと思って見ていると、サクは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いずみ、寝ぼけてんのかよ。俺より先に起きたんだろ?」
むぅ、とすねた振りをして、ベッドの上で丸まりつつ頭から布団をかぶる。泣いてしまいそうだ。そんな顔を、見られたくない。
「うわ、もうこんな時間かよ。授業はともかくテスト遅れたらシャレになんねーだろ」
珍しくも真面目にサクが跳び起きて、私のクローゼットから自分の服を引っ張り出した。
サクはもはや半分ここに住んでいる。着替えが二セットくらい常備されているし、急なお泊まりでも全く不自由しないだけの一式がそろっている。
男物の生活用具を問いただされたくないから、ほかの友達はもう呼べない。
「いずみも他人事じゃねえだろ」
言われて初めて、サクの焦っているテストが自分も受けるべきテストであることに気がついた。
ああ、不覚。
のろのろ起きて、昨日取り込んだ洗濯物の中から、すぐに着られそうな服をつまみ上げる。なんでだろう、サクの方がちゃんとこの部屋で生活している気がする。
「いずみ、それ一昨日着てたのとまるっきり同じ上下」
「あれ、そうだっけ」
仕方がないから箪笥を開けて、上のTシャツだけ別のものに変える。サクはまだなにか言いたそうな顔をしていたけれど、小さな溜息をつくだけにして言いたいことは飲み込んだみたいだった。
私だってちょっとは成長した。この服を前に着たのはいつだっけ、まだ着回しには早いかな、とか考えるようになった。サクだって成長した。あんまりガミガミうるさく言うと私が拗ねることをちゃんと理解して、服だって全く同じでなければ許容範囲だと思ってくれるようになった。
私たちはお互い歩み寄ってるんだか諦めあってるんだかで、なかなかうまくやっている。
そう、うまくやっている。サクは私にとって、出来すぎなくらい良い彼氏だ。
「準備できたなら行こーぜ」
「一緒に行くとこ誰かに見られたらどーすんの」
「道で会ったとか言っときゃいいだろ」
その言い訳はこないだ祐子に会ったときに使ったじゃん、とは言わなかった。
もしかしたら覚えていないのかもしれない。サクはあんまり、ばれたら面倒っていうことを真剣に考えてはいないみたいだ。私もそろそろ隠すのが面倒だし、かと言って敢えてばらすのも面倒だから、なるようになれって思う。
もともと隠そうって言ったのは、私だったっけ、サクだったっけ。
サクに急かされるままにバッグを持った。それでも一応戸締りと火の元の確認は忘れない。これ大切。
「いずみって、なんだかんだ言って几帳面だよな」
窓の鍵がちゃんとかかったか確かめていた私に、サクが言った。
「一人暮らしの女の子だもん。このくらいは気にするの」
「いずみが女の子なあ……」
「失礼な」
そして私たちは、大学に向かって二人並んで歩く。
***
「あれ、藤原。彼氏?」
「中村?」
道中で出会ったのは幸い、祐子じゃなかった。真理子でもタロでもなかった。高校の同級生の中村。茶色い髪をしていて高校の頃とはずいぶん印象が違うけれど、つい先日会ったばかりだから、ちゃんと気付くことができた。
ていうか、なんでこんなとこにいるのさ。あんた大学違うでしょうに。
「いずみ、知り合い?」
「高校の友達。中村ダイスケくん」
なんとなくフルネームで言ってしまったのは、この人は「翔」じゃないよって伝えたかったからかもしれない。それでサクの警戒心がちょっと解けたように見えたのは、私に都合の良い気のせいだろうか。
「へえ、俺の名前覚えてたんだ。藤原のことだからてっきり忘れたかと」
「若干失礼じゃない? そっちこそ、私の名前覚えてんの?」
「いずみだろ。峰本がよく『眠りの泉』って言ってた」
「馬鹿にしてんの?」
「そうじゃなかったらなんだと思うんだよ」
峰本の名前で、先日の同窓会でのことを思い出した。
中村と金沢には悪いことをしてしまったと思うけれど、この分だと中村は気にしていなさそうだ。いやもしかしたら、俺は気にしていないからお前も気にするなっていうアピールなのかもしれない。
どっちにしても、優しい。
「いずみ、そろそろ行かねえと間に合わねえよ?」
時計を気にしながらサクが言った。そうだった、私たちはテストに遅刻しそうで急いで大学に向かっているところなんだった。テストっていう事実を無意識に頭から追い出そうとしている自分がいる。私の頭はとんだ怠け者だ。
「んじゃ中村、またね」
「あ、ちょい待ち。実は友達に会いに来たついでに、藤原んちのポストにこれ入れてこうと思ってたんだ。寄り道の手間が省けた。持ってけよ」
渡されたのは灰色の封筒だった。切手を貼ってはいないものの、ご丁寧に私の名前と住所が書かれている。裏返すと、中村と金沢の連名。
「なにこれ」
「急いでんだろ? あとで読んどいて」
急いでるのは私のはずなのに、中村はそそくさという感じですれ違って、早足で逃げるように行ってしまった。置いて行かれた格好で、私はしばらく立ちすくむ。サクがちょっとだけ苛立った様子で、足を止めたままの私を待っている。
追いついて、サクと隣に並んで、ごめんと謝って。
それでも私の頭はサクのことなんてこれっぽっちも考えてはいない。
封筒の中身が気になって仕方がなかった。
中に何が書いてあるのか、想像がついたからかもしれない。
普通の用事ならメールでいいはずだ。はがきで連絡が来るような大きな同窓会はこないだあったばかりだから、違うと思う。比較的こまめに開いているらしいクラス単位の同窓会のお誘いも、メールで来る。手紙なんて面倒くさい手段を使うことはない。
だからたぶん、すごく大事なこととか、メールでは送りづらいこととか。そんなことが手紙には書いてあるんだろう。
この時期にメールで送りづらいこと。それに、一つだけ心当たりがある。
ああ、でも、そんなことより。
もうすぐテストが始まっちゃう。
どんなに思い悩んでいようがどんなにぼーっとしていようが、足は通い慣れた道をただひたすらに辿った。
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