第29話 イチかバチか

「志緒理さん!」


 結花は洞窟の狭い通路で身をかがめながら叫んだ。

 出口に、志緒理の姿が見える。

 逆光でシルエットになっているが、自分の両手で自分の首を絞めているようだ。


「ぐぅ…ぐぐ…んん」

「志緒理さん!」


 結花はもう一度叫んだ。

 早く…! 急がないと!

 しかしリュックが岩につかえて、なかなか進めない。


「ああ、もう!」


 無理矢理引っ張ろうと身体をねじった。

 するっとリュックが抜けて、つんのめる。


 ──バシャッ

 結花は、水たまりに手をついた。

 その拍子にリュックの口が開いて、仮面やライター、マッチ、ロウソクがあちこちに飛んでいく。


 ──嘘でしょっ!

 なんてミスだろう。こんなときに!

 慌てて拾おうとするが、手が届かない。

 どうしよう、このままじゃ志緒理さんが。

 そのとき、すぐ後ろから声がした。


「結花、どいて!」


 振り返ると──奥で荷物を下ろしたのだろう──仮面をかぶった里桜がこちらへ向かってくる。

 結花はできるだけ横の岩肌に張り付くようにして道を空けた。


「里桜、お願い! 志緒理さんを助けて!」

「やってみる!」


 バシャバシャと音を立てて、里桜がその脇を過ぎ、出口へ向かっていく。

 出口の外では、身体をのけぞらせた志緒理が自分で自分の首を絞めていた。


「ぐが…ぐっぐ…」


 ひときわ苦しそうな息。


「志緒理さん、負けないで!」


 里桜は志緒理の耳元で叫んだ。


「ライターかマッチ…ライターかマッチ…」


 つぶやきながら志緒理のリュックを開け、手を突っ込む。

 すぐにコツンとした感触があった。

 急いで取り出すと、手鏡だった。

 東京の実家で、父親が渡してくれたものだ。

 いま、こんなもの役には立たない。もう一度──と考えた次の瞬間──思い出した。


 ──確かパパはこう言っていた。


「ヒイミさまが自分を見たら、どうなるのだろう」

「仮面もライターも使えないときに、試してみる価値はある」


 ──イチかバチか。


「ぐ…ぐう…ぐぐ」


 志緒理の膝が震え始めたのがわかった。

 もう一刻の猶予もない。


「自分で自分を呪いなさい!」


 里桜はほとんど無意識のうちに、志緒理の背後から手を伸ばして、手鏡をヒイミさまに向けた。

 その瞬間──


 グゲエエッ


 ──いままでに聞いたことのない声がした。

 見ると、ヒイミさまが小刻みに震えている。

 その振動は地鳴りに似たうめき声とともに徐々に激しくなっていく。そしてヒイミさまは風船のようにプクゥッと膨張すると、一呼吸置いて、バチンッと破裂した。


 赤黒い液体が四方八方に飛び散っていく様子が、まるでスローモーションみたいに感じられて、里桜は思わず声を漏らした。


「ああっ」


 その直後、志緒理が倒れ込むように膝をついた。

 メガネが飛んで、水の中に転がる。


「ゲホッ…ガハッ…」


 激しく何度も咳をする志緒理の背中を、里桜が優しくさすった。


「あり…がとう…」


 志緒理が充血した目を里桜に向ける。

 里桜は、仮面を外してうなずいた。


「よかったです…間に合って」


 里桜と志緒理がギュッと抱きしめ合う。

 その後ろから、結花が濡れた顔を拭いながら出てきた。


「ホント…よかった。よかったよ…私、役立たずでごめんなさい…」

「結花ちゃあん、こわかったよぉ」

「志緒理さん…ごめんなさい…」


 結花の目からボロボロと涙がこぼれ出る。


「うわあん、よかったよぉ…」


 結花が飛びつくようにして里桜と志緒理に抱きついた。

 その脇でひとり近藤が、わけがわからないといった表情で尻餅をついていた。


 …破裂したヒイミさまがどうなったのか。それを考える余裕は、この場にいる誰にもなかった。


「いやぁ、なんかすごい音がしたねぇ」


 信じられないほどのんきな声で言いながら森繁が洞窟から出てきたのは、それから数分後だった。


(続く)

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