第26話 郷土資料館
◇ 26 ◇
郷土資料博物館の事務所を訪ねると、髪が真っ白で顔に深いしわが刻み込まれている初老の男性が、にこやかに出迎えてくれた。
「ようこそはるばるお越しくださいました。郷土資料博物館館長の沖山でございます」
「成安文化大学の森繁です。今回は取材へのご協力ありがとうございます」
森繁が沖山館長に負けないくらいの笑顔でお辞儀をする。
「お電話ではうかがいましたが、確かこの島の古い呪いについてお調べだとか」
「はい、そうなんですよ。1月24日の夜に外に出てはいけない日があると聞きましてね。なんでも、外に出たら見てはいけないものを見てしまうらしいですね?」
「ええ。我々はそれを《ヒイミさまのお渡り》と呼んでおります」
「おお。ヒイミさまですか。ビンゴだ、ははは」
森繁が手を叩いて嬉しそうに言った。
その様子を冷ややかな目で見つめながら、志緒理が尋ねる。
「そのヒイミさまというのは、手が4本で、自分の首を抱えている…白い女ですか?」
「手が4本で自分の首を…ですか? いいえ、違いますね」
沖山館長がゆっくりと首を横に振る。
「ヒイミさまの手は2本で、首は抱えていません」
「え、ちょっと待ってください。手が2本で首もつながっている?」
森繁が目を輝かせて食いついた。
「ええ。我々の知るヒイミさまは、そんな化け物ではありません。もちろん、見た者を呪う怨霊には違いありませんが」
「なるほど…。それはちょっと、面白いことになってきたな」
顎に手を当てて森繁が言う。
「ぼくたちの知っているヒイミさまとは微妙に違うようだぞ。なあ、みんな?」
森繁が手を広げて結花たち3人を振り返る。
結花たちは戸惑った表情でお互いを見つめ合うだけで、なにも答えることができなかった。
「…よかったら、ヒイミさまの伝承について、詳しく教えてもらえませんか」
広げた手を合掌するように重ね合わせて、森繁が沖山館長に向き直る。
「ええ。もちろん。資料を用意してありますので、どうぞ」
沖山館長はそう言うと、ゆったりとした足取りで奥の《資料室》へと向かった。
「ヒイミさまは元々、ある美しい流人だったそうです。流人というのはわかりますよね。島流しの刑に処された罪人のことです」
沖山館長が白い手袋をはめて一冊の古い書物を持ち上げる。
「これは《
「おお…それは、すばらしい…」
いつの間にか森繁も白い手袋をはめている。
「ちょっと、拝見しても?」
「ええ、もちろん」
沖山館長が《顛末記》を森繁に差し出す。
森繁は大切な宝物を扱うような手つきでうやうやしく《顛末記》を受け取ると、何度も表と裏を見比べた。
「江戸時代…。この八丈島をはじめとした伊豆諸島は流刑地…つまり流人が送られる場所でしてね」
喋り慣れた様子で、沖山館長が言う。観光客相手に何度も話しているのかもしれない。
「とりわけ江戸から遠く離れているこの八丈島は、特に罪の重い者が流される場所でした。たとえば殺人犯や、
「菱美…というのは、
《顛末記》をめくりながら、森繁が言う。
「はい。
「ぼくが調べた限りですと…流人の多くは島の生活に慣れ、江戸への未練をなくすとあったのですが…」
「ああ、ええ。そういう流人もいます。
「冤罪?」
「…ええ。
「なのに、菱美が流された?」
「…当時の裁きは現代ほど合理的ではありませんからね。どのような気持ちだったか…菱美の心境を察すると胸が締め付けられます。ともあれ、そういうこともありまして江戸への未練が強く…。脱出──これを島抜けと言いますが、どうしたら島抜けできるか。そればかりを考えていたらしい。もちろん、菱美だけではありません。貧しい生活に耐えかねて、島を抜けたいと考える者は大勢いました」
沖山館長はここでひとつ息を吐いた。
「ところが島抜けは容易ではありません。八丈島と本土の間には、流れの急な黒潮がかよっていましてね。流人が用意できるような
「だけどそのリスクを恐れず、菱美は島抜けを計画し、実行した」
「そうです。男の流人を仲間に引き入れ、長い年月をかけて簡単な
沖山館長が切なそうな表情で首を横に振る。
「すでに申したように、島抜けは極刑です。どういう刑に処するかは、そのときどきの状況によって島の有力者…村名主や代官といった人々が協議して決めていました。引き上げられて岩に縛り付けられ、死ぬまで放っておかれる者もいたようですし、丸い竹細工の籠に閉じ込められ、崖の上から転落死させられる者もいました」
「残酷ですね…」
志緒理がポツリと言った。
「そうしなければ、自分たちが罰せられたのです。決して甘い顔はできない。菱美の場合、海で溺死させることが選ばれました」
「溺死…」
「島の有力者たちは、島民に命令しました。岸から火の付いた
「自分で自分の首を絞めた…?」
「どうでしょう。わかりません。そんなことが可能なのかどうか。空気を欲して喉をかきむしったのかも知れません」
「それが寛永4年12月18日の夜なんですね」
パタンと《顛末記》を閉じて、森繁が言った。
「新暦で言えば──1628年1月24日の夜」
結花がハッと森繁を見る。
「24日…?」
森繁は大きく頷いて、「これが、1月24日の伝承につながっている」
沖山館長が「そうです」と答えて、パイプ椅子に腰掛ける。
「翌年…の同じ日。菱美は自らの宣言通り、怨霊となって現れました。月の出た明るい夜だったようで、出歩いている島民も多かったと言われています。そんな人々を菱美は絞め殺していきました」
「それは、菱美自身の手で?」
「はい。2本の手で…。その日だけで十数人が犠牲になりました。2年目も3年目も同様に被害が出たため、島民は菱美を
「ひしみさま…」
「それでも菱美の呪いは収まりませんでした。4年目以降も被害が出て…。島民はその時期に外に出るのを嫌がるようになったのです…。どうしても出なければいけない場合は、松明を
結花は腕を組んで唸った。
自分で自分の首を絞めた格好といい、24日のことといい、火を怖がることといい…菱美とヒイミさまの類似点は多い。
沖山館長が続ける。
「いつ頃からヒイミさまと呼ぶようになったのかは、定かではありません。おそらくは…《菱美様》という呼び方が変化したのに加え…《日を忌む》と《火を忌む》という意味が融合したのでしょうが…皆さんの知るヒイミさまとは、ずいぶん姿形が違うようですね」
そう。あの化け物のような容姿とはかけ離れている。
──いったい、どういうことなんだろう。なぜ、ああいう見た目になったのか…?
チラッと横に立つ里桜を見ると、結花と同じように、難しい顔をして考え込んでいた。同じような疑問を感じているのかもしれない。
いや、里桜だけではない。森繁も志緒理も真剣な表情を浮かべている。
「疑問は、容姿の違いだけじゃない」
人差し指でトントンと顎を叩きながら、森繁がつぶやくように言う。
「仮面だ。ヒイミさまは、仮面をかぶっている人を呪えない。その理由は、いまの解説ではわからなかった…」
「なるほど。呪いの形が進化した、ということですかな」
「わかりません。もう少し詳しく取材してみないことには。そうだ。その菱美様が祀られている神社がどこにあるか、教えていただけませんか」
すると沖山館長は首を横に振り、「残念ながら、現存しません」
「おや、そうなんですか」
「ええ。江戸時代の中期頃、ヒイミさまの被害はパタッと止まりましてね。どうしてかと申しますと、ある陰陽師がヒイミさまを封じ込めた、と言われておりまして」
きっと、それが《猿》だ。結花はそう直感した。
「それ以降、神社は廃止されまして。いまはどこにあるのかもわからないのです」
「それは、残念」
「ええ、本当に。私も一度は調査してみたかったのですが」
「うーん。じゃあ、どうしようかな」
森繁が大げさに首をかしげる。
「そうだ。その陰陽師の資料が残っていたりしませんかね」
「陰陽師の、ですか」
「ええ。いやね、もしかすると…その陰陽師がなにか手を加えたことで、ヒイミさまの性質に変化が生じたのかもしれないと思いまして」
「なるほど。そういうことでしたら、近藤という家を訪ねてみてはいかがですか。その疑問にお答えできるかはわかりませんが」
沖山館長が《顛末記》を金属製の箱にしまいながら答える。
「近藤、ですか」
「ええ。近藤家は、その陰陽師の助手をしていた者の子孫です。私も詳しくは聞いていませんが、なにか伝わっていることがあるかもしれません」
「それは、期待できそうですね」
森繁は無邪気に喜んだ。
一方で、結花はかなり不安だった。
近藤家が《猿》の助手だったとするなら…。いまでもつながりがあるのではないか。そして、もしそうだとするなら…。
──大丈夫だろうか。
仮面の男たちに追いかけられた記憶がフラッシュバックするのを、結花は止めることができなかった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます