第25話 伊勢崎刑事

 ◇ 25 ◇


 再生画面が真っ黒になってから数秒。


 眉をひそめてPCモニターを覗き込んでいた伊勢崎は、急に肌寒くなって、ぶるっと震えた。


 ──なんて不気味な動画なんだ。


 ぎゃぁぁぁぁと叫んだ男の声が、まだ耳から離れない。

 闇の中から現れた、首なしの化け物…。

 この化け物が──プールランドの監視カメラ映像で見た、ゆらゆらと水底で揺れる白い影の正体…なのだろう。そして20年も前からこの…仮屋町近辺で起きている謎の自殺の元凶…。


「私も死にかけたの」


 ふと、結花の言葉を思い出した。


 ──そういえば、対処法があると言っていたな。

 それをあらかじめきちんと聞いておけば、佐々木を失わずに済んだかもしれない。

 いまさら悔やんでも仕方ないが…。


 伊勢崎はきつく目を閉じて、ため息をついた。

 そのときだった。

 …妙な音が耳に届いた。


 コ、コ、コ…


 喉の奥から絞り出すような、くぐもった音。

 伊勢崎はハッと目を開けて、周囲を見渡した。


 コ、コ、コ…


 ハッキリと聞こえる。聞こえ方からして、部屋の外で鳴っている音ではない。確実に、この部屋の中から…。


 ──だが、なにもいないぞ。

 それほど広くない部屋だ。なにかいるなら、すぐにわかるはずだ。なのに…。

 いや、待てよ。

 伊勢崎は奇妙なことに気づいた。


 ──なにもない、だって?

 そんなことはない。だってここには、佐々木の遺体が…。


 ──ない。


「嘘だろ…」


 思わずつぶやいた。

 佐々木がいないのだ。


 ──死体が、動いた?

 バカな。

 確かに絶命していたはずだ。なのに…どうして?

 混乱する伊勢崎をあざ笑うかのように、再度、音が聞こえる。


 コ、コ、コ…


 いままでの2回よりも、近づいているような聞こえ方。

 くそっ、なんだっていうんだ。

 そう思った瞬間、生ゴミのような魚臭さが、ぷうんと漂ってきた。


「ぐっ」


 思わず鼻を押さえて咳き込む。

 すると視界の端に、なにかが見えた。

 何本もの黒い糸が上から垂れ下がっている。それが髪の毛だと理解するまでに、そう長い時間はかからなかった。


 がばっと頭上を仰ぎ見ると、目と鼻の先に女の顔があった。

 一瞬ぎょっとした。だが、すぐに見知った顔だと気づいた。


「さ…さき?」


 そう、それはダクトスペースの下がり天井を両足で挟んで逆さに垂れ下がった佐々木だった。

 顔面には青い血管が幾筋も浮かび上がり、両目は飛び出さんばかりに見開かれている。半開きの口からは唾液がこぼれ落ち、小刻みに震える喉からは「コ、コ、コ…」という、あの音。


 伊勢崎は自分の目が信じられなかった。一瞬、こう思った。佐々木はまだ生きていたのだ、と。けれど、すぐに否定した。もしそうなら、こんな回りくどい脅かし方をせず、「死んだように眠っていただけですよ」とかなんとか、妙な言い訳で取り繕うはずだ。こんな、サーカスみたいな人間離れした真似はしない。


 コ、コ、コ…ココココ……


 佐々木は、喉の奥を鳴らしながら、伊勢崎を凝視し続けている。

 怖くはなかった。ただただ、哀れだった。

 伊勢崎は目を細めると、佐々木の頬に右手を伸ばした。

 凍っているかと思うほど冷たい。


 ──佐々木。おまえがこんなになっちまうなんて…。


 結花は言っていた。

 ヒイミさまに呪われた者は、まず幻覚を見る、と。

 これがそうなのだろう。


 ──おまえの仇は、必ず取るからな。


 伊勢崎がそう念じると、佐々木は煙のように消えた。伊勢崎の右手にはしばらくの間、ひやりとした感触が残り続けた。


 ***


 その頃結花は、里桜や志緒理とともに、森繁の運転する車で八丈島の郷土資料博物館へ向かっていた。


「昨日はよく眠れたかい」


 運転席の森繁が、チラッと助手席の志緒理を見て言った。

 あくびをかみ殺しながら、志緒理が答える。


「いえ、熟睡はできませんでした」

「そうだよね。さすがのぼくもなかなか寝付けなかったよ。どんな真実が明らかになるのかと思うと、楽しみで楽しみで。──あっと、こんなことを言うと、また不謹慎って叱られちゃうな」

「…もういいですよ。慣れました」


 面白くもないという様子でボソッと言うと、志緒理は半分ほど窓を開けた。


 潮の匂いを含んだ湿った風が後部座席に流れ込んでくる。その風に目を細めながら、結花と里桜はぼんやりと窓外の景色に目を移した。

 どこを見ても鬱蒼うっそうとした緑だった。


 民家や商店もそれなりにあるのだが、周辺に植えられた木々に埋もれてしまって存在感は薄い。住所を調べたら東京都らしいのだが、《東京》という名にふさわしい都会らしさはみじんもなかった。結花たちの住んでいる地域も決して都会とは言えないが、それでもこの島よりは遥かに栄えている。


 そもそもが、宿泊先の民宿からして寂れていた。人を泊めるような場所には思えず、結花は「廃墟じゃん」という言葉を何度も口にしそうになった。予約してくれた森繁の手前、なんとか呑み込んだが。

 もちろん、田舎らしい親切さは充分に感じられたから、不満があるわけではない。


 特に民宿の女将さんは朗らかでいい人だった。観光旅行だと思ったのだろう。近くにいい温泉があるとか、穴場の海水浴場があるとか、熱心に教えてくれた。いつヒイミさまが現れるかわからない状況では、水場に近づく気にはなれなかったが…。

 でも役に立つ情報もあった。

 郷土資料博物館のことを教えてくれたのも、その女将さんだった。


「女将さんの話だと、島の歴史に関しちゃ、そこの館長さん以上に詳しい人はいないみたいだけど…さぁて、どんな話が聞けるかな」

 森繁が誰に言うでもなくつぶやいた。心なしか声が弾んでいるようだった。


 ──この人にとっては、呪いで死ぬのも病気で死ぬのも変わりないんだな。


 結花が、ふとそんなことを思ったときだった。

 右手に握りしめたままのスマホが震えた。

 父親からの電話だった。

 反射的に通話ボタンをスワイプする。


「もしもし。お父さん?」

「結花。そっちはどうだ」

「どうって…?」


 結花はスマホを持つ手に力をこめた。

 父親の声が、いつもより沈んでいるように思えたからだった。


「ヒイミさまは?」

「うん…まだだけど…どうしたの」

「実はな…。父さん、見ちまったんだ。あの動画」

「…えっ」


 血の気が引いていくのがわかった。

 ただならぬ様子に、隣に座る里桜が険しい表情で結花を見る。


「ど、どうして…?」

「動画サイトにアップされたのは、知っているか」

「うん。ニュースで見たよ」

「それを、父さんの部下が調べてな。今朝、亡くなっていた」

「え!? だからって、どうしてお父さんがそれを見るのよ。見ちゃダメだって、知ってたでしょ!」

 声を荒らげても仕方がないことはわかっている。それでもそうしなければ、気持ちが収まらなかった。

「いろいろあってな。父さんも、呪いの渦中かちゅうに飛び込まないといけないって思ったんだ」

「いろいろってなによ! 死んじゃうかもしれないんだよ?」

「…だから、おまえに電話したんだ。対処法を聞くために」

「…やっぱり言うんじゃなかった。こうなる予感がしていたのよ」

 結花は深いため息をついた。


 東京に出発する前の電話…。あのとき、なぜ正直にすべてを話す気になったのだろう。適当にはぐらかしていれば、少なくとも父親が呪われることはなかったはずだ。

 激しい後悔。


 と同時に、まったく正反対の感情もわき起こってくる。

 父親は刑事だ。結花の嘘など瞬時に見破って、どのみちヒイミさまの呪いに行き着いたかもしれない。いや、かもしれないではなく、きっと行き着いただろう。


「結花。おまえが怒る気持ちはわかるよ。でも父さんの気持ちも理解して欲しい。この戦いは、もうおまえだけのものではないんだ」

「…わかったわよ。いろいろ聞きたいことあるだろうから、里桜に代わる」


 結花はそう言うと、隣で聞き耳を立てている里桜にスマホを渡した。


「聞こえたかもしれないけど、お父さんが動画を見たって。それで、対処法を聞きたがっているの。ほかにも質問があると思うから、話してくれるかな?」


 里桜がこくりとうなずいてスマホを耳に当てる。


「お電話代わりました。奥山里桜と言います。あたしでわかることであれば、なんでもお答えします」


 里桜がヒイミさまへの対処法や、いままでわかったことなどをかいつまんで話しているのを聞きながら、結花は再び窓外を見つめた。


 ──どうして、私たち父娘がこんな目に遭わなければいけないのだろう。誰でもいいから嘘だと言って欲しい。たちの悪い冗談だと。


 もう一度深いため息をついたとき、急に視界が開けて、結花の目の前に大海原が広がった。


「わあ、きれいだねぇ」


 なんの感動もこもっていない声で、森繁が言う。

 いつもなら苛立たしく感じるその軽口も、このときはなぜかホッとした。


(続く)

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