第11話 結花①

 ◇ 12 ◇


「絵美? 絵美!」


 結花はスマホに向かって何度も絵美の名を叫んだ。

 突然音声に雑音が混じり、絵美の声が聞こえなくなった。


「とにかく水から離れるの。聞こえてる? 絵美!」


 さっきから何度も繰り返しているけれど、いっこうに応答がない。


「間に合わなかったのかもね」


 ため息交じりの声が、後ろから聞こえた。

 振り返ると、里桜が険しい顔で首を横に振っている。


 ──間に合わなかった。

 その意味するところは、あえて聞くまでもない。

 絵美はヒイミさまに呪い殺された、ということ。

 結花はみぞおちのあたりが、きゅうっと痛くなった。

 なんて残酷なタイミングだろう。


 私が襲われたことや、奈央が亡くなったことを話す前に、水が危険なことをさっさと教えてあげればよかった。

 そうすれば…絵美は……。

 結花はスマホを耳から離し、強く握りしめた。

 後悔しかなかった。


「できるだけのことはやったと思うよ」


 里桜ではない声が、結花を慰める。

 志緒理だった。


「…そう、でしょうか。私、もっと、できることがあったんじゃないでしょうか」


 結花はつぶやいた。


「こんなこと、誰にとっても初めての経験だもの。正しいやり方なんて、誰にもわからない。それでも結花ちゃんは、友だちを助けようとした」

「でも、助けられなかった」

「まだわからないでしょ。電話が切れただけなんだし」


 そう言いながらも志緒理の声には力がない。


「ううん。里桜の言うとおりです。きっと、間に合わなかった」


 結花は、ようやくスマホの通話ボタンをオフにした。


「…いつかは、私も、やられるかも」


 結花がすがるような目で志緒理を見る。志緒理は小さくうなずいて「わたしも、ね」と答えた。

 結花の思考は、3時間ほど前にさかのぼっていった。


 先輩が送ってきたあの動画を見てすぐ、私はことの重大さに気づいた。


 映っている女がヒイミさまなのだとしたら、それを見た私も呪われる。死ぬ。そう直感した。

 サアアッと血の気が引いていくのがわかった。

 どうしたらいい? どうやったら助かる?


 急に寒くなった気がして、私はぶるっと震えた。壁に掛かっていた時計を見ると、11時を少し回ったところ。気温が下がる時間帯でもない。

 私はひとりでいるのがこわくなり、先輩の部屋を飛び出した。


 階段を下りて1階へ向かう。

 その途中で、おやっと思った。


 何の音も聞こえてこないのだ。

 1階には志緒理さんも弔問客も、まだ残っているはず。

 なのに、なにも聞こえない。


 私は不安になって、祭壇のある部屋を覗いてみた。

 すると、誰の姿も見えなかった。

 あれだけいた弔問客の影も形もない。


 これは…なにか変だ。

 私はものすごく嫌な予感がして、早くここから離れようと思った。

 急ぎ足で玄関に向かい、腰を下ろして靴に足を差し入れようとした。


 そのとき玄関のドアがコン、コンと鳴った。


 パッと顔を上げてドアを見ると、脇に磨りガラスがはめられていて、向こう側がぼんやりと透けている。そこに、人影があった。


 全身が真っ白で、異常に細くて。

 女の人のようだった。

 一瞬、弔問客かと思ったけれど、それなら黒く見えるはず。


 ハッとなった。

 足元から、ぞぞぞっと寒気が這い上がってくる。


 ヒイミさまだ…!

 ヒイミさまが来たんだ。


 よく見ると、腕が4本あるのが磨りガラス越しでもわかる。

 私は靴をはく手を止めた。

 どうしよう、ここにいるのを気づかれたら。

 外に聞こえないようにそっと靴を元の位置に戻すと、私はゆっくり立ち上がろうとした。

 ノックの音が、ノブを強引に回す音へと変わった。


 ガチャガチャッ、ガチャガチャッ


 ノブが激しく揺れる。

 思わずびくっと身体が固まった。

 いつドアが壊れてもおかしくないくらいの乱暴さ。


 ガチャガチャッ、ガチャガチャッ


 やめて、入ってこないで。向こうへ行って!

 私はまともに立ち上がれず、尻餅をついてしまった。


 こわい。こわい。こわい。こわい。

 廊下の奥へ避難しようと思ったけれど、膝の震えが止まらず、まともに動けない。這うように壁際に寄って頭を抱える。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。誰かたすけて。


 突然、一切の音がなくなった。


 えっと思ってドアを見ると、ノブの揺れも、ドア自体の振動も収まっている。

 磨りガラスの向こうにいた、ヒイミさまの姿もない。


 開かないと思って、諦めたのだろうか。

 私は、ふっと腰を浮かせた。その瞬間、背後でただならぬ気配がした。触れる者みな呑み込まんとする邪悪な闇。

 でも後ろはすぐ壁だ。誰もいるはずはない。なのに…感じる。

 私は、ばっと後ろを振りあおいだ。


 薄暗い天井に、白いものがうごめいている。


 ヒイミさまだった。

 思わず「ひっ」と小さく叫んで、私は反対側の壁に這うようにして移動した。


 ヒイミさまは足の指だけで天井のさんをつかむと、だらりと逆さまになった。

 目の前に、ヒイミさまの肩が迫る。

 首の断面がハッキリと見えた。

 ところどころ黒く変色した肉は、乾燥しているわけでもなくぬるぬるしていて、妙に生々しい。そこからドロッとした赤い液体が、こぼれていく。


 液体は私の目と鼻の先をかすめて、制服のスカートに落ちた。

 魚が腐ったときの臭いが、もわっと立ち上った。

 私は悲鳴を上げるのも、鼻を押さえるのも忘れて、ただ呆然としていた。


 2本の腕に支えられたヒイミさまの顔が、ヌッと下りてくる。逆さまになっているはずなのに、髪の毛がぴったり整えられていて、どこを探しても目がなかった。なのに私の位置はわかるらしい。ヒイミさまは私の顔を真正面に見据えると、血で真っ赤な唇を大きく横に開いて、にんまりと笑った。


 口の中から、コ、コ、コ…という音が聞こえた。


 ──ああ…この音。

 聞き覚えがある。


 そう思った瞬間、突然ガシッと右腕をつかまれた。


「どうしたの。大丈夫?」


 ビックリして振り向くと、いつのまにか志緒理さんが脇に立っていて、私の腕をつかんでいる。

 私は呆然としたまま「ヒイミさまは?」と尋ねた。

 すると志緒理さんは、きょとんとした表情で首をかしげる。


「誰、それ?」


 私はなにも言えず、志緒理さんと廊下を見比べることしかできなかった。

 ヒイミさまは、どこにもいなかった。魚臭さもなくなっていたし、廊下は電気がついていて明るい。スカートについたはずの赤い液体もなくなっていた。


「……私、いま…あの……」


 うまく言葉が出てこない。そんな私の頭を、志緒理さんはポンポンと叩いた。


(続く)

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