第10話 絵美②
すべてを見終わったあと、絵美は激しく後悔した。
先輩を襲った、ヒイミさまという女…。
普通の…生きている人間とはとても思えなかった。
これが映画だったら、よくできたCGだなと感心するところだけれど、先輩がそんな手の込んだことをするわけもない。
つまり、この動画に映っているのは、本当の…霊……。
ぞぞぞっと鳥肌が立ち、絵美は電源ボタンを押して画面をオフにする。
その直後、けたたましく着信音が鳴った。
どきっとしてスマホを落としそうになる。抱きかかえるようにして、なんとかスマホを手に収めた。
画面を見ると、電話は父親からだった。
途端に力が抜ける。
なによ、もう。ビックリさせて…。
「もしもしっ?」
思わずイラッとした絵美が、ぞんざいに言った。
聞こえてきたのは、父親の声ではなかった。
コ、コ、コ…
誰のものかまったくわからないが、喉の奥から絞り出したような音。
コ、コ、コ、コココ…
黒板を爪でひっかいたときのような嫌悪感がこみ上げてくる。
「え? おとうさん? もしもし?」
絵美がそう言った瞬間、ビシッという音とともにスマホの画面に亀裂が入った。
「ひゃっ!」
絵美は驚いてスマホを落とした。
スマホは落ちた勢いでリノリウムの床を滑っていく。そして、あっと思う間もなく、端っこに置かれたベンチの下の
「ああ、もうっ」
絵美は身をかがめ、ベンチの下に腕を差し込んだ。
右に左に動かしてみる。
なにも触れるものがない。
もっと奥に行ってしまったのだろうか。ほとんど
するとようやくコツンという感触があって、スマホらしきものに手が届く。
──あった。
そのとき、冷たいなにかが、手首に触れた。
「いやぁっ」
小さく叫んで、絵美が勢いよく腕を引っ込める。
虫かと思った。
…虫ならまだマシだっただろう。
手首に骨張った細い手が巻き付いている。
「なんっ!」
絵美は飛び起きて、腕を2度、3度払った。
ひんやりした感触がフッとなくなり、その細い手が消えたのがわかった。
なによ…なによ、いまの!
絵美は、自分の目で見たものが信じられなかった。
幻覚だと思いたいが、それにしては生々しい感触。
絵美は手首をまじまじと見つめた。はっきりと、つかまれたあとがある。赤黒い指の形だ。顔を近づけてみると、ぷぅんと、魚が腐ったような臭いがこびりついている。
「くさっ!」
思わず顔を背けた。
ああ、洗いたい。手首を洗いたい!
絵美はすばやく顔を動かして、女子トイレを探した。
プールサイドの方に女子トイレの表示が見える。急いでそちらへ足を向けたとき、気になる光景を目撃した。
女子トイレから、絵美のよく知る人物が出てくるのが見えたのだ。
──奈央?
少し離れてはいるが、それは確かに制服を着た奈央に見えた。
いや、でも…。
即座に絵美は首を振る。
奈央は、母親と一緒に祖父母の家へ向かっているはずだ。いまごろは車の中。こんなところにいるわけがない。しかも、制服って…。
きっと、他人のそら似。
そう考えて納得しようとしたが、どうしても奈央としか思えなかった。それくらい、よく似ていたのだ。
──確かめてみるか。
絵美はスマホをオンにして、通話履歴から奈央を呼び出した。
コール音が鳴り始める。
1回、2回…。
3回目が鳴る直前に「もしもし」と奈央によく似た声が聞こえた。
「あ、もしもし。奈央?」
つとめて明るくそう言った。
だけど、応えたのは思いがけない人だった。
「ああ、ごめんね…。母の眞知です」
「えっ、あ…はい」
絵美はぎょっとして、ぎこちなく返事をした。
奈央の電話をどうして母親の眞知さんが取るのだろう。
絵美の心に、さっと不安がよぎった。
眞知さんとは何度も話したことがあるが、いままでで一番沈んだ声なのも気になった。泣いているようにも聞こえる。
「え、あの…どうしたんですか?」
絵美は思わずそう尋ねた。
「……」
眞知の次の言葉は、なかなか出てこなかった。
沈黙の向こうで、パトカーのサイレンが聞こえる。
──もしかして事故った?
絵美が息をのんだのとほぼ同時に、眞知が消え入りそうな声で言った。
「奈央がね…パーキングエリアのトイレで、自殺したの」
「…え?」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
「自殺したのよ、奈央が…。自分で自分の首を絞めて」
「自分で自分の…」
首を絞めて?
それって、朔太郎先輩と同じ死に方じゃん…。
そう思うと、心の中がヒリッとした。スライドショーのように、いろんな場面が頭の中に浮かんでくる。
みすぼらしい姿の老婆。
《見ちゃダメ》という結花の書き込み。動画に出てきた白い女。ベンチの下から現れた細い手。スマホから聞こえた妙な音。奈央そっくりの女子高生…。
自分で自分の首を絞めた先輩。
その先輩が動画の中で言った。
「ヒイミさまを見ると、呪われる」
もしかすると奈央も…。
「……それって、いつのことですか」
絵美が尋ねると、眞知は「つい1時間前よ。12時くらい…だったかな」と言って
「ほんと、ついさっきまで、元気だったのよ…。ねえ、絵美ちゃん。あの子、どうして突然、自殺なんかしたのかな」
絵美はなにも言えなかった。
それから二言三言話して電話を切ったが、なにを話したのかは覚えていない。
絵美はフードコートで待っているはずの父親に連絡するのも忘れて、プールサイドに座り、放心していた。
なにもする気が起きなかった。
奈央は一番の親友だった。何でも話せたし、大人になっても友だちでいられる自信があった。だから、とにかくショックで……まるで心が
結花から電話がかかってきたのは、14時になる少し前だった。
結花が開口一番「あの動画、絶対見ちゃだめだからね」と言ったので、絵美は思わずフッと笑ってしまった。
1時間近く前の話に、いまごろ返事をされても、意味がない。
もうとっくに見てしまったあとなのだから。
「もう、遅いよ」
絵美が沈んだ声で言うと、結花は申し訳なさそうに、「そっか。ごめん」と謝ってきた。
その態度が、なぜか妙に腹立たしかった。
「ごめんって、言われてもさ。先輩から送られてきてるんだから、どうしたって見ちゃうじゃん。どうせ書くならもっと細かく書いておいてよ」
やつあたりだということはわかっている。
でも、この泥の底のような
「ホント、ごめんね、絵美。でも、私も必死だったの。だから、そんなに怒らないで」
「怒ってるっていうか、混乱してて。さっき、眞知さんと話したの。奈央のお母さんと」
「…え?」
「奈央、自殺したんだって。自分で自分の首を絞めて」
ひゅうっと息をのむ音が聞こえた。
「あり得ないじゃん。これから田舎でゆっくりしようとしている人が、突然自殺なんて」
思わず声が大きくなった。プールサイドにいる家族連れが、ぎょっとして絵美を見る。絵美は、エントランスの方へ歩き出した。
「…そうだね」
「それでちょっと、なにも考えられなくて…。ごめん。きつい言い方して」
「ううん。そっか、奈央もあの動画を見たんだね…」
結花は深いため息をついた。
「やっぱり、あの動画を見たせいなの?」
絵美が尋ねる。
「うん。あれは呪いの動画で…見た人のところに、ヒイミさまが来るの」
「わたしのところにも?」
「絶対に来る。私も、さっき殺されかけた。私の手を勝手に動かして、私の首を絞めようとしたの…」
自分で自分の首を絞める。
先輩や奈央と同じ死に方だ。
ということは…私も。
全身から血の気が引いていくのがわかった。
「でも大丈夫。一時的にだけど、助かる方法があるから」
「えっ、そうなの」
「うん、そのおかげで、私はまだ生きてる」
「なにをしたらいいの。私、どうしたら助かるの!」
絵美は思わず叫んだ。
「とにかく水のそばから離れて。いますぐ!」
……水のそばから離れる?
「どうして」
「どうしてって…ヒイミさまは水を…つる…が…」
突然、音声にノイズが乗って、結花の声が聞こえづらくなった。
「結花! 結花ってば!」
絵美は必死に呼びかけた。しかし、ついに結花の声はまったく聞こえなくなった。
途端に、胸が苦しくなった。
もう終わりだ。
だって水から離れるなんて無理に決まっている。ここはプールなのだから。
そのとき、絵美の前に、奈央に似た女子高生が歩いてきた。
思わず
「な…お?」
呼びかけると、女子高生はニッコリとうなずいて絵美に手招きをした。
「来いってこと? そっちへ行けば、助かる道があるってこと?」
絵美の言葉には答えず、女子高生は人ごみの中にフッと消えた。
「ま、待って!」
絵美が慌てて追いかけた。
女子高生はするすると人の波を避けていく。
《海のプール》へ向かっているようだ。
「待って! 奈央! 待ってってば!」
絵美は必死に追いかけた。周りの人たちがいぶかしげな顔で絵美のことを見ている。それを気にしている余裕は、絵美にはなかった。
ようやく《海のプール》にたどり着くと、女子高生は制服のまま、波に向かって歩いていた。まるで入水自殺でもするかのような光景だった。
「奈央! どこへ行くの!」
女子高生の身体が、どんどん水の中に消えていく。
水面が胸の高さまで来たところで、女子高生は一度絵美を振り返った。
「奈央…」
次の瞬間、女子高生の頭が波に呑まれて見えなくなった。
「奈央…ダメだよ。行かないで! わたしを助けて!」
絵美はそう叫ぶと、水の中へ走り出した。
ジャブジャブと波をかき分け、前に進む。
あっという間に水面は腰の高さになり、胸の高さになり、首の高さになった。それでも前に進み続ける。ついに立てる深さではなくなり、絵美は水面に浮かんだ。
「きみ、さっきからなにをぶつぶつ言ってるんだ!?」
その声にハッとなって振り返ると、後ろから男たちが泳いでくるのが見えた。
「おねがい! 見てたでしょ! 友だちが沈んじゃったの! 助けてよ!」
絵美が男たちに叫ぶ。
男たちはぎょっとして、お互いを見合う。
そのうちのひとりが優しく言った。
「きみ。そんな子はいなかった。見間違いだよ」
「うそ。うそよ。確かにいたわ」
「いや、いなかった。ぼくたちには、きみがひとりで入っていったように見えたけどな」
「…うそよ。うそよ!」
絵美の目から涙がこぼれた。
この男たちはうそをついている。だって確かに奈央がいたのだ。奈央がわたしを安全なところへ連れて行ってくれる。だから奈央をみつけないといけないのに、どうしてこのおとこたちはうそをいうのだろう。だれもしんじちゃいけない。わたしがナオヲタスケナイト。
「わああああぁぁぁ!」と叫んで絵美は水中に潜った。
その瞬間、身体の自由が利かなくなった。
鉄の人形にでもなったみたいに、絵美の身体は水底へ向かって落ちていった。
ごぼごぼ、と呼気が水泡となって上っていく。
いつの間にか、自分の手が自分の首に巻き付いていた。
視界の端に、水底に立っている白い女が見えた。
14時ちょうどに、絵美の身体が、まるで丸太のように水面に浮かび上がった。
追いかけてきていた男たちが、慌てて絵美をプールサイドまで運んでいく。
バタバタと数人の警備員とライフセーバーが走ってきて、手に持ったAEDを絵美の胸に当てた。
しかし何度やっても、絵美の息が戻ることはなかった。
絵美を探していた父親が、変わり果てた娘を目にしたのは、それから5分後のことだった。
(続く)
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