第7話 奈央①
◇ 9 ◇
突然、強い風が吹いてきて、奈央の部屋の窓が、ガタガタッと震えた。
お気に入りの洋服をスーツケースに押し込んでいた奈央が、びくっとして窓を見る。
──もうっ、勘弁して欲しいんだけど。
これで何度目だろう。
昨年の冬頃から、どうも窓の建て付けがよくない。ちょっと風が吹いたくらいで大きな音を立てるので、たびたびビックリさせられている。
…だいたい、ママもママよね。何度も直してって言っているのに、無視してさ。
まったく、ため息が出る。この一軒家に私とママだけの生活。
男手がないのは不便だ。パパがいれば、窓の建て付けくらいすぐに直せるだろう。
でも私とママには、そのちょっとしたことができない。
奈央は窓が大きな音を立てて震えるたび、父親のことが恋しくなるのだった。
パパが単身赴任して何年になるだろう。
もうずっと顔を見ていない気がする。
そういえば、どんな顔をしていたっけ。
えーっと、と思い出そうとしたとき、
「奈央〜。用意できた〜?」
階下から、奈央の母親──
「まだぁ!」
「早くしなさいよ。夕方までには着きたいんだから、向こうに」
「はぁい!」
そう。窓の建て付けくらいでグズグズ言っている暇はない。これから祖父母の家に行くのだ。帰ってくるのは夏休みの最後の日。
パパが単身赴任してから、ずっとそうしている。
もちろんそのせいで、陸上部の練習には出られない。友だちとも遊べない。おしゃれな町で買い物したり、話題のスイーツを食べることもない。
──今日だって。
本当は、野村朔太郎先輩の告別式に出たかった。
結花にも絵美にも内緒にしているけれど、朔太郎先輩のことは、ずっと気になっていた。きっと、もう彼女がいるだろうって、勝手に諦めていたのを、いまは後悔している。
まさか先輩が…朔太郎先輩が、死んでしまうなんて思ってもいなかった。
先輩がいない。もう会えない。
そう思うと、自分の心の一部が、どこかに行ってしまったみたいに感じる。
しかも、自殺だなんて。
事故なら、まだ…わかる。そういうこともあるだろう。でも、死にたがっていたなんて辛すぎる。毎日部活で顔を合わせていたのに、まったく気づかなかった。そして、そんな自分が悔しくてしょうがない。
だから…せめてもの罪滅ぼしに、告別式に出たかった。
先輩たちや絵美は、仮屋町の穢れが少しでも移るのをこわがって結花に押しつけたみたいだけれど、もし出発が今日じゃなくて明日だったら……。
……行っていただろうか。
いくら好きでも……。
仮屋町で亡くなった人のところへ、行けるのだろうか。
奈央は目を閉じた。
ここで「行く」と思えないところが、また情けなかった。
でも……。
この辺りの人間なら、用があったってあんなところには行かない。
なんで先輩は、仮屋町なんかにいたのだろう。
ふいに奥山里桜の顔が浮かんだ。仮屋町の住人のくせに、私たちの町の高校に転校してきて大きな顔をしている、あの女。
――なんであいつのことなんか。
奈央はいらだちまぎれに、ちっ、と舌打ちをした。
そのときだった。
机の上で充電中だったスマホが短く2回、震えた。
奈央はスマホを手に取ると、指紋認証でロックを解除した。通知バーにLINEの着信を意味する吹き出しマークが出ている。それを下にスワイプしてみると…。
──野村朔太郎が動画を送信しました。
なにかの間違いだ。
瞬時にそう思った。
だって、先輩がLINEなんてできるわけがない。
誰かのいたずら? それとも時間指定で送ってきたとか?
そんなこと、できたっけ?
よくわからない。
でも、先輩から送られてきたのなら、見ないわけにはいかない。
奈央はLINEの通知をタッチして、動画を開いた。
◇ 10 ◇
──なにこれ。ホラー映画?
それが、動画を見終わって最初の感想だった。
途中で「仮屋町」という表示板が見えたから、先輩はこの動画を撮るために、あの町へ行ったのだろう。
ビックリするシーンの連続だった。
たとえば画面がインカメラに切り替わったとき。
青白い顔がアップで映ったものだから、思わず「うわっ」と声を上げてしまった。それが先輩の顔だとわかったあとも、ドキドキが止まらなかった。
それに、先輩がヒイミさまと呼んでいた白い女。
手が4本もあった。
そんな女が獣みたいに突進して、先輩がすごい悲鳴をあげるところでは、思わず目をつぶり、呼吸を忘れていた。
それから最後……。先輩の後ろから、異常に痩せた誰かの手が、すぅぅぅっと…。
──いや、いやいや。
奈央はこわくなり、スマホの画面を伏せた。
なんだろうか、この動画は。
最後のほうで先輩は言っていた。ヒイミさまを見たら呪われる、と。
ということは、先輩が亡くなったのは、あの白い女のせいってこと?
わからない。急に、こんなこわい動画を送ってこられても、なにをどう考えていいのか……。
そもそも、誰が送ってきたのだろう。
どう考えたって、先輩なわけがない。
となると、なりすまし?
でも、なりすました奴が、先輩の撮った動画を送ってくるというのも、意味がわからない。
こわがらせるのが目的?
いったい、なんのために?
奈央がそんなことを考えていると、突然、部屋の窓がガタガタッと大きな音を立てた。
びくっと身体を縮こまらせて、奈央が窓を見る。
──もう、また?
こわい動画を見たあとだから、よけいに驚いた。
胸に手を当てて、ほう、と息を吐く。
スーツケースに向き直り、さっさと準備を終わらせよう。そう思ったとき、妙なことに気づいた。
窓の震えが収まらないのだ。
ガタガタッ、ガタガタッ…
いっこうに、収まらない。
風にしては長すぎる。まるで誰かが外から叩いているような。
ガタガタッ、ガタガタッ…
そこまで考えてハッとした。
どうして「誰かが外から叩いている」なんて思ったのだろう。ここは2階だ。ベランダもない。なのに…。
ガタガタッ、ガタガタッ…
なぜか、動画で見たあの白い女が、2本の腕で首を抱え、もう2本の腕で、何度も何度も窓を叩く──そんな想像で頭がいっぱいになった。
全身がヒヤッとした。見渡す限りの雪原に半袖で立ち尽くしているような感覚。
──ないない。あり得ない。風だよ。ただの風。ちょっと長い風が吹いているだけ!
そう思えば思うほどこわくなる。
ガタガタッ、ガタガタッ…
奈央は耳をふさぎ、目を閉じた。
その瞬間、右肩を強くつかまれた。
「いやぁっ!」
思わず飛び上がり、振り返る。
そこにいたのは、眞知だった。
「ま、ママ…!」
「どうしたのよ、そんなにびっくりして」
「えっ、いや、だって…急に肩をつかむから」
「はあ? 何度も声かけたわよ?」
「ええ?」
聞こえなかった。絶対に。
ふと窓を見ると、あれだけ震えていたのがうそのように静まりかえっている。
なんだったの、いまの…。
呆然としている奈央に、眞知が笑って言った。
「なにボケてるのよ、まったく。15分後に出るから、荷物、車に積んどくのよ」
奈央がなにか答えるより先に、眞知は部屋のドアを閉めて階段を降りていく。
時計を見ると、11時になるところだった。
急がないと。
高速道路を飛ばしても、祖父母の家まで3時間はかかる。渋滞にはまってしまったら、夕方までに着けるかあやしい。
奈央は気を取り直して、再びスーツケースに向き直った。
すると、またもや窓が音を立て始めた。はじめは小さく…やがて大きく。
カタカタ…ガタガタッ
「やめてっ」
思わず叫んだ。瞬間、窓の震えがピタリと止む。代わりに、すきま風。
ヒヨォゥ────ゥ
奈央は「ああっ、もう!」と声を荒らげて、窓に駆け寄った。そしてわずかな隙間もできないように、強く押した。
これですきま風の入る余地はない…はずだった。なのに…。
ヒヨォゥ────ゥ
甲高い音が鳴り続ける。
絶対にあり得ない。あり得ない。あり得ない。あり得ない。
何度も首を横に振る。
あり得ない。あり得ない。あり得ない。
そのとき、ふわっと、なにかが、指先に巻き付いた。
風ではない。
透明で、弾力のある、なにか紐のようなもの。それが、指先から手首、手首からひじへ巻き付いていくのがわかった。
──ひぃっ。
奈央が右腕をはたいた。
しかし、巻き付く感覚はなくならない。
やだ。やだやだやだ!
もういい。もう充分だ。
急いでスーツケースのジッパーを閉めると、奈央は両腕に抱え込むようにして素早く階段を降り、車庫へと向かった。
「奈央? 準備できたの?」
眞知がリビングから叫ぶように言った。
「ママ! もう行こう! 早く!」
「ええ? もう、勝手なんだから!」
眞知の小言を聞きながら、奈央がスーツケースを車の後部座席に放り込む。
後部ドアを勢いよく閉めたとき、ふと、違和感に気づいた。
なんだろう…。
奈央は後部座席の窓ガラスをじっと見た。
窓には、日焼け防止のフィルムが貼ってあって、外から見ると鏡みたいになる。そこに、奈央の姿が映っていたのだが、左肩になにか白いものが張り付いているように見えた。
──えっ?
と思った瞬間、その白いものが、ウネウネと動いた。
「む、虫っ?」
慌てて右手で肩を振り払おうとする。
しかし、できなかった。
右手が、その白いものに、ガシッとつかまれたからだ。
冷たい感触。
ハッとして肩を見ると、細く骨張った手が、奈央の手を握っていた。
「やぁぁぁぁぁ!」
奈央は驚きのあまり腰を抜かした。
わなわなと震えながら、右手を見る。
細く骨張った手は、どこかに消えていた。でも、つかまれた感覚は残っていた。
──な、な、な、なんなのよ…。
奈央はもう一度小さく「いや!」と叫ぶと、なんとか立ち上がって、車庫を飛び出した。
「ママ! ママ!」
リビングへ駆け込む。
しかし、眞知の姿がどこにもなかった。
返事もない。
「ママ? ママってば!」
奈央の心に不安がよぎった。
ここで荷物を詰め込んでいたはずだ。
なのに、その荷物が見当たらない。
「ママぁ!」
半べそになりながら、奈央がキッチンや和室、トイレ、バスルームを覗き込んでいく。
そのどこにも眞知の姿はない。
なにか変だ。なにか変だ。なにか変だ。
奈央は、どうしていいかわからず、リビングの床にへたり込んだ。
──ママ。どこにいるの?
そのとき突然、キッチンの方からコ、コ、コと喉の奥を鳴らしたような音が聞こえてきた。
一瞬、眞知がそちらにいるのかと思った。
でも、すぐに思い直す。
──こ、この音…って…。
聞き覚えがあった。しかもついさっきだ。そう、たしか先輩の動画にも、こんな音が。
──そうだ、ヒイミさま。ヒイミさまよ。
奈央は、なぜか立ち上がっていた。
頭の中では、見に行ってはいけないとわかっていた。わざわざ変な音のする方へ行くなんて、正気の沙汰ではない。
ところが、身体が言うことを聞かなかった。
こわいのに、辛いのに、足が勝手に、キッチンへ向かっていくのだ。
コ、コ、コ…
コ、コ、コ…
キッチンに入り、音の出所を目で探す。するとシンクの中に水桶が置かれていて、その中に半分ほど水が溜まっていた。音はその水の中から聞こえているようだ。
わけがわからない。
なんで水の中から?
そう思った瞬間、水がゴボッと盛り上がった。桶の中に小さい山ができる。
「──!」
奈央は、なにも言えず目を丸くした。
水はさらに盛り上がり、Uの字を逆さまにしたような形になった。
突然、その水に大量の赤い液体がドバッと混じって、どんどん赤くなっていく。
全体が真紅に染まったその瞬間、水の塊は風船が割れるみたいに、パチンとはぜた。
ザバンと落下した赤い水が、シンクで弾けて血しぶきのように辺りに飛び散る。
その途端、腐った魚の臭いに似たひどい悪臭が漂ってきた。
思わず鼻を押さえた瞬間、眞知の声が飛んできた。
「そんなとこでなにボーッとしてんの! 戸締まり確認したの?」
奈央は、それが自分に向けられた言葉だと理解するまでに、たっぷり5秒はかかった。
「──え?」
ようやく振り返ると、眞知がリビングで腕組みをして、奈央を睨みつけている。眞知の足元には、スーツケース。
そんな、バカな。
「どうして…」
奈央が思わずそう言うと、眞知は呆れた顔で首を横に振った。
「あんた、大丈夫?」
「え…っと」
まともに答えられない。
「あ、もう11時15分じゃない。ほら。車に乗って!」
そう言うと眞知は、急ぎ足で車へと向かっていった。眞知の姿が見えなくなると、奈央は急に心細くなり、慌てて後を追った。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます