第8話 奈央②

 家を出て30分経っても、奈央の心はずっと沈んでいた。

 眞知はiPodをカーオーディオにつないで、懐メロを再生しながら陽気に歌っている。その脳天気さに若干いらつきながら、奈央は考えていた。

 ──私、呪われたのだろうか。

 止まない窓ガラスの震え。肩に乗っていた手。山のように盛り上がった桶の水…。飛び散った水の魚臭さ…。

 先輩は言っていた。

 ヒイミさまを見たら呪われる──。

 呪いなんてそんなもの…とは思うけれど、あんなことがあったあとでは、無関係とは思えなくなっている。

 どうすればいいのだろう。なにをしたら助かる?

 車がトンネルに入り、窓の外が真っ暗になった。

 助手席の窓に反射する自分の顔を見て、奈央は思わず左肩を見た。また、あの細くて骨張った手が肩に乗っているのではないかと思ったからだ。

 左肩から右肩、右肩から左肩へ、何度も視線を移した。そこでようやくホッとする。

 大丈夫。なにも、いない。

 ふぅと息を吐いて、正面を向いた。

 トンネルの出口が近づいてくる。

 なんだか肩が重い気がして、奈央は自分で自分の肩をんだ。

「お疲れね」

 眞知が奈央の腕に手を置いて言った。


「さっきもボウッとしてたし。大丈夫?」

「うん…ちょっとなんか、疲れてるのかな」

「まだまだかかるから、寝てていいわよ」

「…うん」

 車がトンネルを出る。まばゆい光に目を細めながら、眞知が「あ、そうそう」と言った。

「そこのパーキングエリア、寄るからね。コーヒー買いたいし。いいでしょ?」

 眞知は、奈央の答えを聞くより早くウィンカーを出して、左車線に移った。

 奈央は、答えるのも面倒だった。いまはそんなこと、どうでもいい。

 だんだんと車が減速していく。

 やがて緩いカーブを曲がると、パーキングエリアの広い駐車場が見えてきた。

 眞知はきょろきょろと周囲を見回して、真ん中の列へ車を進めた。

 そして端っこの方に前向きで駐車する。

「なんか欲しいものある?」

 シートベルトを外しながら、眞知が言った。

「ううん。大丈夫」

「車で待ってる? エアコン、付けとこうか」

「いい。トイレ行くから」

 奈央もシートベルトを外し、車を降りる。

「じゃあ、5分後にあそこのベンチで待ち合わせね」

 車をロックすると、眞知は小走りで売店へ向かった。

 奈央はその背中を見送ると、右に左に顔を動かして、トイレを探した。

 トイレは、売店とは反対側にあるようだった。駐車した位置からかなり離れていて、日陰らしい日陰もない。

 夏の日差しが、容赦なく肌に突き刺さるのを感じた。車の間をうように歩いていくと、むせるような熱気が上からも下からも襲ってくる。

 一気に汗が噴き出してきて、奈央は、やっぱり車で待っていれば良かったと後悔した。

 ひぃひぃ言いながらようやくトイレに着くと、結構な列になっていた。

 昼間だから空いているかと思ったが、甘かった。一番奥の個室が故障しているらしく「使用不可」の張り紙がある。そのせいで人の流れが悪くなっているのだろう。 5分以上はかかりそうだ。

 マジかよ、もう…。

 奈央は毒づきながら、眞知へ連絡しようとスマホを取り出し、画面のロックを解除する。


 突然、キィィィィィンと耳鳴りがした。


 思わず目を閉じて耳を押さえる。

 その拍子にスマホが手からこぼれ落ちた。

 あっと思ったが、それどころではない。

 立っていられないほどの耳鳴りだった。頭の中にジェット機が飛んでいるような感じ。


 奈央は「あああああ」と叫んだ。なにかを叫ぶことで、耳鳴りを中和できるのではないかと考えたから。

 だけど効果はなかった。

 周りの人たちがぎょっとした顔で奈央を見つめている。


 たすけて。


 そう言ったつもりだった。

 でも、耳鳴りがひどくて、自分でなにを喋っているのか、まったくわからない。

 ついに奈央はうずくまってしまった。

 なんで…。

 なんで誰も助けてくれないの!

 心の中でそう叫びながら、奈央が恨めしく周囲を見る。

 そのときだった。

 突然耳鳴りが止み、代わりに、コ、コ、コと喉の奥を鳴らしたような音が聞こえてきた。ハッとして音のする方を見ると、一番奥の「使用不可」の個室から響いてくるのがわかった。


 コ、コ、コ…


 ヒイミさまだ…。

 だとしたら、絶対に行ってはいけない。行ったら、今度こそなにが起こるかわからない。

 奈央は自分で自分に言い聞かせた。しかし、やはり意に反して、足が勝手に動いてしまう。


 どうして! やだよ! 行きたくないのに!


 奈央はグッとお腹に力を入れて、足を止めようとする。

 けれど、無駄だった。コ

 なにかに引っ張られるように、足がずるずると前に滑っていく。

 やだ! やだよぉ!

 近づくにつれ、音が大きく、速くなる。


 コ、コ、コ…コココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココココ


 奈央はほとんど引きずられるようにして、一番奥の個室の前に立った。

 個室のドアがゆっくりと、ひとりでに開いていく。

 半分ほど開いたところで、中の様子が見えた。

 便器の水がこんもりと盛り上がって、逆流した滝のようになっている。

 キッチンのときと一緒だった。

 Uの字を逆さまにしたような形で、水がブヨブヨと塊になっている。そして、みるみる赤くなっていく。


 なんなのよ、これは! どうしてこんな目にあうのよ!


 奈央はパニックになった。

 逃げ出したくて仕方なかった。

 けれど金縛りにあったように、身体がまったく動かない。

 やがて真っ赤な水をかき分けるようにして、2本の腕がにょきっと現れた。

 腕の次は、長い黒髪が巻き付いた首。

 首は、先に出てきた2本とは別の腕が、耳の辺りをがっちりと抱えている。


 コココ、コココ…


 ああ、やっぱり。やっぱりヒイミさまだ…!

 ヒイミさまが、私のところへ来ようとしているんだ!


 女は…ヒイミさまはいま、赤い水の割れ目から右足を出し、左足を抜こうとしている。まもなく全身が出る、というところで、真っ赤な水の塊がザバンと一気に崩れ落ちた。

 トイレは一面、血の海と化した。

 ヒイミさまが奈央の方へ腕を伸ばす。

 するとその動きに呼応するように、奈央の両手が、勝手に自分の首へと向かっていく。


 やだ。やだやだやだ!


 このときになって、ようやく確信した。

 先輩も同じように死んだのだ。

 やっぱり自殺じゃなかった。

 呪い殺されたんだ。この女…この、ヒイミさまに。


 そんなことを考える間も、ものすごい力であごの下をギュゥッと絞めていく。

 自分の手とは思えないほどの怪力だった。

 首の骨が悲鳴を上げている。


 ギチ…ギシギシ…


 このままだと、折れるのも時間の問題だろう。

 ……なんで?

 薄れていく意識の中で、奈央の心を占めていたのは理不尽への怒りだった。

 ──なんで私が死ななきゃいけないのよ?

 その問いに答えられるものは誰もいない。


 こうして奈央は絶命した。

 ヒイミさまの動画を見てから、ちょうど1時間後のことだった。

 のちに奈央の周囲にいた人々は、警察の事情聴取でこう言ったという。

「彼女は突然、一番奥の個室まで歩いて行って、ドアを開けました。そして、自分で自分の首を絞めたのです」


(続く)


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