第3話 仮屋町①

 ◇ 6 ◇


 学校のレンガ造りの門柱を過ぎると、ツツジの植え込みが左右に伸びる歩道に出る。そこを左に曲がって、ちょっと行ったところに、いつも利用しているバス停があった。

 バス停には、大根を縦に半分に切って横にしたような白い屋根がついている。それを見るたび結花は、出来損ないのブッシュ・ド・ノエルみたいだなと思っていたが、ひとまずそこまで行けば雨を防ぐことができるから、靴と靴下が汚れるのもかまわず全力で走った。

 校門から歩いて2分くらいの位置。だいたい150メートルくらい。ランニングシューズなら20秒ちょっとで行ける。だけど今日はローファーだったから、そこまで速くは走れなかった。それでも30秒はかからなかったと思う。

 折り畳み傘を持っていたことに気づいたのは、ハンカチを取り出そうと鞄を開いたときだった。

 出がけに母が「今日は降るかもしれないから」と押し込んできたのを忘れていた。

 もっと早く気づいていれば濡れなくてすんだのに。

 でも、傘を開いていると走りづらいし、時間をロスしてバスに間に合わなかったかもしれない。スマホアプリで運行状況を確認してみると、あと少しで到着するようだし、結果的にはこれで正解だったのだ。

 結花は息を整えながら、濡れた髪をハンカチで拭いた。

 雨はどんどん激しさを増している。水の入ったバケツをひっくり返したような豪雨になってきた。歩道にみるみる水が溜まっていき、川のように流れていく。

 その水の流れを目で追っていると、かすむ視界の中、バスのヘッドライトが迫ってきた。

 鞄にハンカチをしまって、手で髪をとかす。直後、ザバアッと水しぶきを上げながら、バスが停留所に入ってきた。ブレーキがきしんで、ギギィと嫌な音が周囲に響く。ブザーが鳴ってドアが開くと、極力雨に濡れないように、結花は素早く車内に飛び込んだ。


 さて、どこに座ろうかと車内を見回すと、乗客が一人もいないことに気づいた。

 貸し切り状態。誰もいない車内を見回していると、以前にもこんなことがあったな、と思い出した。

 あのときは、先輩がいた。二人っきりの時間を思う存分楽しめた。でも…。

 でも、いまはもう…。

 とてつもない喪失感。

 もう二度と、先輩と並んで座ることはないのだ。

 ……そうだ。これから何年経っても、私は思い出すだろう。バスに乗るたび…そして隣に誰かが座るたび、もう決して会うことのできない先輩のことを。

 20分ほど経った頃だろうか。

 視界が突然明るくなって、結花はハッと我に返った。

 車内に陽の光が差し込んできたのだ。

 あれほど激しく降っていた雨もピタリと止んでいる。


「次は、仮屋町。仮屋町です」


 女性の声で車内アナウンスが流れる。

 バスは仮屋町に続く大橋にさしかかっていた。

 結花は降車ブザーを鳴らして、次で降りることを伝えた。

 その瞬間、運転手がミラー越しに結花を見た。眉と目元しか見えなかったが、明らかに嫌悪感を抱いているようだ。

 たぶん、私を仮屋町の人だと勘違いしているのね。まあ、しょうがないけど……でも、すごく嫌な気分。

 胸の奥がちりちりと痛んだ。

 このバス停で降りるだけで、どうしてこんな嫌な気分にさせられなきゃいけないのだろう。このバス停は、仮屋町の人以外、絶対に使わないってこと?

 ……おそらく、そうなのだろう。ここで乗ってくる人も、ここで降りる人も、穢れた人間だと思われているのだ。

 もしこのバスに私以外の乗客がいたら、どんなふうに扱われただろう。


 そう思うと、ぞっとする。

 これが普段、里桜や仮屋町の人が味わっている気持ちなのね。生きていることを全否定されているよう……。


 停車して降車ドアが開くと、結花は逃げるようにしてバスから降りた。

 その瞬間、ムッとした熱気が首筋をなでた。暑い。

 空を見上げると、仮屋町一帯だけが晴れている。まるで大橋を境にして、目に見えないバリアがあるかのようだ。風が全然ないため、熱がダイレクトに身体に伝わってくる。

 結花はもう一度ハンカチを取り出して、今度は汗を拭いた。

 バスが巨体を揺らして橋の向こうに完全に見えなくなると、結花は改めて周囲を見回した。


 さびたガードレールに、立ち枯れした街路樹。古めかしいマスコットの置かれた薬局は中が真っ暗で開いているのかわからない。その隣にある理髪店は電気がついているものの、サインポールは回っておらず、やはり営業しているのか、あやしい。歩行者すら見当たらない。想像以上にさびれている。

 先輩は、どういう気持ちでこの景色を眺めたのだろう。

 疑問に思ったそのとき、ゾクッとした。どこからかネットリとまつわりつくような視線を感じる。

 それもひとつではない。ふたつ、みっつ。いや、もっと。

 周囲を見渡すと、民家2階の窓の隙間からぎょろりと覗く誰かと目が合った。


 ――ひっ…!


 思わず後ずさって、ブロック塀に背中を付けた。すると、塀の向こうで衣擦きぬずれの音がする。おそるおそる振り向くと、ブロック塀の風通し穴にも誰かの目が見えた。

「やだっ」

 反射的に飛び退いた。私に気づかれてもなお、その誰かは隠れるわけでもなく、変わらずこちらをジロッと見ている。

 気持ち悪い。なんなのよ、いったい?

 結花は早足にその場を離れた。

 奈央が「絶対なにかある」と言っていた意味が、少しわかった気がした。

 確かにこの町は不気味だ。ジッとしているのはこわい。

 さっさと里桜の家に行こう。

 そう思ったところで、とんでもないミスに気がついた。

 先生に通知表を渡すよう頼まれたはいいけれど、住所を聞いていなかったのだ。

 いまから学校に戻っても先生がいるかどうかはわからない。どうしよう。

 うーんとうなること数分。あることを思いだした。

 LINEグループに、里桜を尾行した画像が投稿されていたはず。あれを見れば。

 さっそくLINEを開いて、里桜が歩いていったと思われる方向を確認する。画像では「たばこ」と書かれた赤いひさしのあるお店の角を曲がっている。

 素早く左右を見渡すと、バス停から50メートルほど離れた場所に、画像とまったく同じ赤いひさしが見えた。


 ひさしの下には、缶コーヒーの自動販売機が置かれていて、その向こうが曲がり角。自動販売機の隣には腰高のガラスカウンターがあって、いろんな銘柄のたばこが並んでいる。カウンターの上には公衆電話と、お金を払ったり商品を受け取ったりする小窓。その小窓はぴったりと閉めきられていて、中は見えなかった。


 結花はひさしの下まで走ると、自動販売機に隠れるようにして、角の向こうを覗き込んだ。

 一方通行の狭い道だった。左側に民家の戸が並び、その前に白線が引かれている。道の反対側には2メートルほどの木塀が続いていて、その向こうは見えない。

 画像を見る限り、この民家のどこかに「奥山」と書かれた家があるはず…。

 思ったより迷わずにすんだことにホッとしながら、狭い道に足を踏み入れようとしたそのとき。

 小窓の向こうから、強い視線を感じた。

 射られたような感覚に、思わず振り返る。

 小窓はわずかに開いていた。

 いつの間に開いたのだろう。

 おそるおそる覗き込むと、店内は陽の光が届いておらず、暗くてよくわからなかった。

 それでも見続けていると、誰かのシルエットが見えてきた。

 暗がりの中に、誰かが、いる。

 背筋がひやりとした。


「あの、すみません…」


 結花は思い切って声をかけてみた。声をかけずにはいられなかった。なにか言わないと、悲鳴を上げてしまいそうで。

 でも、その人物はなにも答えなかった。微動だにせず、ジッと結花の方に顔を向けている。聞こえているかどうかすら危うい雰囲気。まるで生気を感じない。

 ──こわい。

 結花はサッと後ずさり、小窓から離れた。大粒の汗が背中を伝っていく。ダッシュでこの場から逃げ出したかった。でも。

 その気持ちをグッとこらえた。

 このままにしておくのが嫌になったのだ。

 私に、後ろめたいことはなにもない。県外の人間で、差別もしていない。なのに、こんなの気分が悪い。

 結花はカウンターに近づくと、小窓を大きく開いて、「あのっ」と首を突っ込んだ。明るいところから暗いところにいきなり入ったので、目が慣れるまで少し時間がかかった。

 慣れてみると、そこにいたはずの人影が、なくなっていた。

 ぞくりとして、鼓動が大きくなった。自分でもハッキリ聞こえるほど。晴れた昼間の路上だというのに、震えるくらい寒い。

 今日はもう帰ろう。

 通知表を渡すのは、別に今日じゃなくたってかまわないはずだし……。明日、また出直したっていいんじゃないだろうか。

 そうだ、そうしよう。

 結花がそう決めて、振り返ろうとしたそのときだった。


「──あんた、なにしてるの?」


 背後から声が飛んできたので、心臓が止まるくらい驚いた。

 硬直したまま声の方を振り向くと、黒いワンピースをまとった里桜が、怪訝けげんな表情で立っていた。

 その姿を見て、結花は全身の力が抜けるくらいホッとした。

「あんた…同じクラスの子だよね。こんなところで、なにしているの?」

 里桜が小声で言った。周囲に聞かれたくないとでもいうように。

 結花も自然と声をひそめて、

「なにって…あなたの家に行こうと思って」

「うちに?」

「今日、学校に来なかったでしょ。だから…」

 そう言うと、結花は鞄から茶封筒を取り出して手渡した。

 里桜は中身を一瞥いちべつすると「ああ、通知表ね」とつぶやいて、結花に返した。

「いらない」

「えっ、いらないって言われても…私だって持って帰れないよ、そんなの」

「じゃあ、捨てる」

「ええっ?」

 呆気あっけにとられる結花の目の前で、里桜は封筒ごと通知表をくしゃくしゃにしていく。

 結花は目を丸くして、封筒と里桜の顔を何度も見比べた。

「どうしてそんなこと…」

「もう行かないし、どうでもいいのよ」

 里桜は丸めて小さくなった茶封筒を道ばたにポイと放り投げ、すたすたと歩き出した。

 結花はまたもや呆気にとられた。

 ――もう行かないって、どういうこと?

 転校して、まだ1ヶ月も経っていないのに。

 学校での差別が原因だろうか。でもそれなら、もっと前に辞めているはず。

 それに差別されるのが嫌なら、仮屋町に住んでいることを隠すのが普通だ。けれど里桜にはそんな様子がまったくなかった。

「どうして」

 それだけ言うのが精一杯だった。

「どうして? あんたには関係ないでしょ。あたしがいないほうが、みんな幸せなんだし」

「そんなことない! どうしてそんなこと言うのよ!」

 結花は里桜の肩をつかんだ。里桜がハッとなって、結花を振り返る。

「あんた、あたしに触っても平気なの?」

「平気だよ。だって私、この辺の人間じゃないから」

「え…」

「私、県外から通ってるの。この町が差別されていることは知ってるけど…正直私は、どうでもいい」

 本心だった。仮屋町のことを差別する気持ちなんて、わかりたくもない。

 しかし里桜には衝撃的な発言だったようだ。目を丸くして、何度も小さくうなずいている。

「そうか、そういうことだったのね。どうりで私を避けないはずだわ」

「言ってなかったっけ」

「そうね。聞くこともなかったし」

 敵ではないことがわかったおかげか、里桜の顔から警戒心が薄れ、頬がゆるんだ。

「でも、そうだとしても、あんた、変わってるわね」

「え? 私は変わってなんかないよ。変わってるのは里桜さんのほうでしょ」

 結花が口をとがらせる。

「ちがう。そんなことない。普通の人なら、教室のあの空気に逆らわず、みんなと同じようにあたしを避けるはず」

「そうかな」

「そうよ。たとえあたしのことをなんとも思ってなくたって、普通は、わざわざ通知表を届けに来たりはしない」

 確かにそれはそうかもしれない。私だって昨日のことがなければ、通知表を届ける役を受けなかったかも。

 そう。通知表はただの口実。

 本当は、先輩とのことを聞くためにここに来た。


(続く)

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