45 前途は遼遠なれど 2/2

「ああ……。今までのは仕方ないとしてもよ。これ以上みんなに迷惑をかけ続けるなんて耐えられない……!」

「そのぐらい我慢してください。さすがに今回は無理をしすぎたんですよ」

「だって、限界って超えるためにあるものでしょ?」

「あなたが言うと狂気以外の何物でもないので、やめていただけます?」


 言葉の合間に特大の溜息が零れ落ちる。

 勇者として、社長として、そして最高議会の第七席として、スカーレットの元に途切れることなく訪れる有象無象うぞうむぞうの人、通信、便り。その全てに応対し、内容を余すところなく記録し、時には得意でない交渉さえも余儀なくされていたのだ。秘書の助力がなければとっくに倒れていただろうし、それでなくとも体は限界の信号を幾度となく送ってきていた。

 あらゆる心身の疲労が一挙に押し寄せて、恋人の隣に身を投げ出した。透かさず細い手が伸びてきて、癖のある髪を撫で回される。


「私の分までありがとう。よく頑張ってくれました。レンリ、いい子いい子」

「やめてください、子供じゃあるまいし」


 我知らず、その手を振り払っていた。拒絶ではなく、増してや嫌悪でもない。どう応じればいいか分からないだけだ。そして、そんな内心を見透かされていることが、また不愉快でもある。


「レンリは本当に素直じゃないわね。可愛い可愛い」

「ですから、やめてくださいって」


 わざとらしく息を吐いて、話題を転じることにする。甘やかされることに耐えかねたというだけでなく、伝えておかねばと考えていたことを思い出したからだった。


「そう言えば、あなたが眠っている間に一つ進展があったんですよ。自由都市レニスがエリーシア連合に加入したそうですよ。朝刊の号外が出回っています」


 エリーシア連合とは、魔法都市ベルベリアが実質的な支配権を持つ国際連合のことだ。の国々のあるエリーシア大陸の名を冠したその連合に、長らく参加を拒否していたレニスが招かれることになったという。事実上、レニスはベルベリアの統治下に入ったようなものである。

 両国間で如何なるやり取りがなされたのかは、当然明るみにはならないが、クライシー邸での事件がきっかけになったことだけは、疑いようのない事実だった。


「よかったじゃない。ガイアス殿下が上手く取り計らってくださったということでしょ? 女王様の名前が表に出れば、世界情勢への影響は避けられなかったでしょうから」

「これも、全て奴等が仕組んだことだとでも言うんでしょうか」


 レンリが導き出した可能性は、女王に疑心の種を植え付け、ベルベリアを憎悪し、警戒するように仕向けた者の正体。彼等の存在を近くに感じるからこそ、眉唾まゆつばだとあしらうことのできない話。


「仮にそうだとしたら、彼等の目的は何かしら? 世界の平穏が脅かされるのなら、見過ごすわけにはいかないわね」

「何にせよ、よかったです。僕の手であなたを……なんて、夢見の悪い結果にならなくて。そうなっていたら、一生後悔してもしきれなかったでしょうから」

「うふふ、よかったのよ。あなたの手でこの人生を終わらせてくれても、それはそれで。死ぬ覚悟なんていつでもできてるわ」


 全身の過剰な熱を隣の男にも否応なしに分け与えながら、女は言った。朱を帯びた横顔がふっと緩む。一見何気ない態度の中に、ほんの僅かに溶け出した真意の一端を、レンリは見逃すことができなかった。

 ところが、思わず厳しくなった台詞は女によって軽くあしらわれ、代わりに耳に痛い揶揄からかいが返される。


「あなたの冗談はいつもおもしろくないんですよ」

「今回のことでよーく分かったわ。レンリ。あなたって、敵に回すとこの上なく厄介なのね」

「う……。その節は、本当に申し訳ありませんでした」


 女に背を向け、思い切り頭を抱える。紛い物の英雄たちに包囲された恋人の助けになるどころか、むしろ逆に結界魔法で追い詰めてしまったのだ。レンリの痛恨は身を焦がすほどで、の一件とともに、彼の胸中を深くさいなみ続けている。

 しかし、苦渋に満ち満ちた彼の背に、スカーレットはただ微笑みかけた。何の気負いもなく、何の禍根もない、真っ白な声だった。


「どうしてあなたが謝るのよ。私は誇りに思ってるの。世界一の治癒師を仲間に……。いいえ、恋人に持ったことをね」



 暫時、寄り添い合う二人の間には静かな時が流れた。それは、スカーレットが何事かに思いを馳せる時間であり、レンリの覚悟のための時間でもあった。

 すー、と、レンリは深く息を吸い込んだ。半身を起こし、ベッドを降りて、横にあった丸井椅子に腰を掛ける。


「ところで、スカーレット」

「ん?」


 強く、深く意識する。高ぶる鼓動を宥め、でき得る限り冷静に。普段通りの口調、普段通りの表情で。

 何よりも、何よりも知りたかったことを。


「あの日、カロン・ブラックと何があったのか、教えていただけませんか?」

「……」


 まるでスイッチを切ったように、穏やかだった表情が、一瞬にしてかき消えた。レンリはよく知っている。彼女のこの顔は、多くの場合において、受容しきれない感情を抑制するためのものなのだと。

 ナナハネが明言したわけではない。けれど、彼女の態度や話しぶりから、おおよその察しはついていた。ただ、レンリは、恋人本人の口から真実を聞きたかった。

 もどかしくなるような時を、辛抱強くやり過ごす。焦らすような間を超えた先に待っていたのは、弱弱しい謝罪だった。


「ごめんなさい」


 それで、自分の悪い予想が的中していたのだと理解した。

 詳細に問い詰めたい気持ち、自身の身を焦がす怒り、憎悪、そして無力感。その一切合切を一時的に心の奥底へと押し込んだ。今するべきことは、自身の醜い感情と向き合うことではないと、再三、言い聞かせる。


「馬鹿ですね、あなたは本当に。なぜ謝罪なんです? つらい思いをしたのはあなたでしょうに」


 何でも包み込んでしまえそうな優しい声音に、我がことながら驚いた。真っすぐに向けられた瞳を、ただ見つめ返す。

 スカーレットの顔にあるのは僅かな困惑のみで、大きな心の動きを感じ取ることはできない。そのことが、どうしようもなく切なく、悲しかった。


「私は何ともないの。確かにとても驚きはしたんだけど、本当にそれだけだったの。ただ、レンリ、あなたがね……。あなたが傷つくことだけが、私にもはっきりと分かったの。……ごめんなさい」

「本当に、あなたという人は……」


 今にも洪水を起こしてしまいそうな感情を、浅い吐息でどうにか抑え付けて立ち上がる。紅茶を淹れながら、高ぶる心を静めるつもりだった。

 しかし、そんなレンリの背に追いすがるように、スカーレットは声を掛けた。


「カロンさんのことだけど」


 背後から聞こえた怨敵の名に身構える。振り返らないのは、自身をむしばむ醜い内心を悟られぬためだ。


「彼は、触れたものの魔力を消去することができるみたいだわ。私たちにとって、魔力は血液と同じ、命そのもの。もちろん魔力なくしては生きられない。つまりはね、そういうことなの」

「奴に接触を許せば一巻の終わり。僕等には勝ち目なんてないと」

「だけどね。あの人を止めなきゃいけないのは、きっと私だと思うの。逃げるわけにはいかないわ。負けるわけにもいかないの」


 レンリに、と言うよりも、自らに言い聞かせるようにスカーレットは言った。

 その台詞を聞く前から、とうに覚悟はしていた。それは決して過信や慢心などではない。なるべくして勇者となった彼女に課された使命であり、呪いなのだと。


「あのね。私にならできるというのは、きっと傲慢な考えなのでしょうけど。だけど、レンリ、あなたがいてくれれば……」


 背中越しに女の気配が動く。

 ここに至ってもなお、レンリは臆病なままだった。彼女の口から期待通りの言葉が紡がれるのを、ただ待つだけの愚か者だった。半身を起こし、すがるように語りかけてくる恋人に、即答することさえできない頑迷がんめいな人間だった。


「あなたには、ついてきてほしいの。私と一緒に戦って。私と一緒に守って。この会社のみんなを」


 思いに突き動かされて振り返る。真っすぐで切なる眼差しが、レンリの心を真っ向から貫いた。その顔に、その瞳に、深く切実な信念が宿っている。

 迷うことなど、あるはずもない。だというのに、飛び出す言葉がこんなにも幼稚で言い訳がましいのはなぜだろう。ずるい言い方だと分かっていながらも、止められないのは。


「僕なんかでいいんですか? あなたは一人でも十分強いですし、今回のように僕が足手まといになることもあるかもしれませんよ」

「それは一長一短というものよ。あなたが傍にいることで得られるメリットの方が、断然大きいわ」

「僕は、傷を癒すしか能がない人間ですよ。それでも……。それでも、こんな僕を傍に置いてくださいますか?」


 彼女が求めてくるのなら、あれこれと言わずに応じようと決めていた。けれど、大きな不安に揺れる心が、慰めを求める弱い心が、知らず弱音を吐き出してしまう。

 即断即決が基本のスカーレットは、『もちろん』と囁いて、柔らかに微笑んだ。


「あなたとともにいることが、今の私にとっての最良最善だと判断したの。ワンラインのことも、カロンさんのことも、二人でならきっと何とかできるわ。だから、もうどこにも行かないでね」

「行きませんよ、どこにも。僕が傍にいないと、あなたは何をしでかすか分かりませんから」

「それじゃあ、レンリ。本業と勇者業の両立、大変でしょうけど頑張ってね。ささやかながら応援してるわ」


 他人事のようなことを言って、スカーレットはにやりと笑う。

 求められることで救われているのは、きっと自分の方だ。伸びてきた両の手を包み込むように握って、レンリは控えめに口角を上げた。


「仕方ありませんね。あなたのわがままに付き合えるのは僕だけですからね。頼まれたら嫌とは言えませんよ」


 少しだけ調子の良いことを言って、ほんの僅か、胸を張ってみる。世界に唯一の勇者の隣にいられることを、たまには自慢に思っても罰は当たらないはずだ。

 しかし、ここで終わらないのがスカーレットという女である。


「あら、残念だけどレンリ。それはいくら何でも買い被りすぎじゃないかしら? ナナハネちゃんやガスパーくんだっているし、セレンだって、もう20年以上一緒に——」

「ワンラインと戦うのならお一人でどうぞ」

「えっ、と、それって……冗談よね?」


 心地よい緊張を含んだ高揚感から一転、地に叩き落された気分になり、レンリは再び女に背を向けた。捨て台詞を残して、速足で部屋を抜け出す。


「スカーレットなんてもう知りません」

「ちょっと待って。ねえ、何がいけなかったの? レンリ? 待って、ねえ、レンリったら」


 追いかけてくるのは、心底当惑した女の声。

 間もなくレンリは、自分を追ってやってくる恋人を自室のベッドへと送り返し、彼女の横で深い溜息を落とさねばならないのだろう。

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