41 解き放たれた英雄たち 2/2

「レンリ!」


 呼ばれるまでもなく、彼は動いていた。力の入り切らない足に鞭を打ち、愛する者の領域へ。

 彼女の記憶を取り戻したわけではない。それでも、彼の心には僅かな迷いもなかった。


「すみません。魔力を使いすぎてしまって」


 固有魔法の結界を長時間行使したレンリは、自身の姿勢を維持するだけでも精一杯の状態であった。

 もはや新たに結界を張るどころか、負傷している彼女に治癒魔法を掛けることすら難しい。

 居たたまれない思いで謝罪をするレンリに、しかし、スカーレットは大輪の微笑みで応じるのだ。


「私、一人でも結構強いけど、あなたがいてくれればもっと強くなれるの。あとは私にお任せあれ!」


 スカーレットが狙い打った相手は、傍らにいた兵士を盾にして逃げ伸びていた。ふらふらと後退る男、ダルフ・シュトロームに、彼女は言い聞かせるように教えてやった。


「確かに木は森に隠せって言うけど、今回のは悪手だったわね。魂のない人形の中から命の揺らぎを見つけるのは、意外と簡単なのよ」

「くっくっくっ。さすがは勇者だな。さっきまでのは全部時間稼ぎだったというわけか。頭が下がるぜ」

「ご称賛にあずかり光栄でございます。できることなら、このまま穏便に事を済ませられると嬉しいのだけど」

「はん、冗談だろ? 俺にはまだ魔法絵兵があるんだぜ」


 スカーレットは不敵に微笑む。レンリは瞠目どうもくした。英雄たちからの攻撃を防ぎ、躱し、あるいは受けながら、先刻恋人の中に感じた氷の魔法痕まほうこんと同じ気配を探っていたと言うのか。


「ダブル・レイガント」


 スカーレットの詠唱を確認するや否や、ダルフは手近な英雄を引き寄せた。厳重な光の檻が、ダルフを庇う形で押し出された英雄へと炸裂する。英雄だった物はふっとその場から消え去り、派手な紙吹雪となって辺りに舞い落ちた。


「身代わりなんて、性格悪いですよ!」

「生憎これが俺様の戦い方なんでな!」

 レンリの抗議はダルフによって軽くあしらわれる。

 ダルフとスカーレットを結ぶ線上に、幾人かの英雄が滑り込んでくる。今度は魔法ではない。誰もが小さな、あるいは大きな、はたまたぎざぎざとした先端の刃を手に手に、スカーレットたちへと肉薄する。

 その速さだけを見るなら、決して恐れる物ではない。ひとえに退路がないだけだ。


「まずいですって!」

「グラント・アイスバーン!」


 レンリとスカーレットが同時に叫ぶ。

 茶髪の少年へ、筋肉隆々の男へ、真っ赤なポニーテールの女へ、王冠を乗せた長身の男へ。スカーレットの操る冷気が、迫りくる英雄を刹那のうちに氷漬けにした。二人の四方で紙吹雪が舞う。


「残すはあと10人です! やれますか?」

「もちろんよ!」


 視線を素早く周囲に走らせ、レンリが言う。奇怪な武器の類はもう見えない。


「まだだ!」


 自分を鼓舞するようなダルフの声。直後、レンリの意識が再び引き摺られた。


「レンリ!」

「うぅぅぅあぁっぁ!!」


 咄嗟に傍らの女に縋りつき、出せる限りの力で以て抵抗した。曖昧になりかけた意識が返ってくる。

 盛大な舌打ちが聞こえた。


「もういい。殺せ!」


 殺意の籠った恫喝が空気を震わせた。その命令に答えるように、虚ろな瞳の老の英雄が杖を掲げた。


「デモンズ・サークル」


 彼の前に、闇色の球体が見えた。そう思った次の瞬間には、漆黒の絨毯じゅうたんがレンリたちの足元に広がっている。


「……っ!」


 スカーレットが息を呑む気配。闇の絨毯じゅうたんは、二人の周囲にドーム状の領域を作り上げた。禍々しい気が満ちていく。

 体内を侵食されるおぞましい感覚とともに、レンリの視界は反転した。


「うああ……!」


 滲む視界に死神が見えた。男か女かも判然としないその幻影が、スカーレットに向けて鎌を振り上げ、そして——。




「トゥインクル・ダンス!」


 レンリの世界で、閃光が弾けた。

 音を、視界を、脳内を、漂白の世界が飲み込んだ。

 浮遊感。虚無感。全ての繋がりを絶たれたような、広い世界に一人残されたような、ひどく曖昧で、虚ろな感覚。

 得体の知れない場所から逃れたくて夢中で手足を動かすと、右の手が何かにぶつかった。離れる。探す。また触れる。ひんやりと冷たいそれを掴むと、ぐっと引き寄せられた。

 励ますような声に、名を呼ばれる。


「レンリ!」




 気が付くと、開けた廊下にレンリは立っていた。

 辺り一帯を小さな紙片が踊り狂っている。それは、僅かな光をこぼしながら、この一角に白い絨毯じゅうたんこしらえた。


「ぐっ、ふあっ……!」


 ダルフ・シュトロームは横たわっていた。脇腹に光弾の直撃を受け、立派な赤い花を咲かせていた。

 光属性にこんな暴力的な魔法があっただろうかと、宮廷魔法氏の彼は戦慄しているに違いなかった。


「やめて」


 と。倒れたダルフを庇うように進み出た女が、温度も色もない声で囁いた。

 先ほどの魔法を受けてなお、その女は立っていた。広げた両手は消えかかり、今にも紙くずになりそうな姿で。

 さらさらと靡く青銀の長髪と端正を極めた面立ちが、レンリの視線を縫い留めた。姿、顔形、雰囲気。色彩以外の全てが、隣の女に瓜二つだった。


「アイスバーン」


 だが、スカーレットは躊躇なく杖を振るった。圧縮された冷気を全身に受けた女は、今度こそ白い紙吹雪と化して姿を消した。


「許してくれ!」


 切羽詰まった声は、レンリの眼下から。脇腹から止めどなく血を溢れさせながら、ダルフが慈悲を乞う。すぐにでも治療をしなければ助からないのは自明であった。

 なるだけしっかりとした足取りを意識して、レンリは彼の下へと歩みを進めた。魔力不足からくる全身の疲労と、先刻受けた闇の気の影響で、少しでも気を抜こうものならくずおれてしまいそうだ。

 そうだとしても、見逃すわけにはいかない。自身の肉体を好き勝手に利用し、彼女を危険に晒した重罪人の末路を。


「僕の記憶を戻してください」

「さ、先に、傷を……」

「記憶の解除が先です」

「頼む。回、復を……」

「分からない人ですね」


 僅かに顔を上げて懇願する眼差しを、一歩も譲らず冷ややかに押し返す。

 この男が死んだら失われた記憶はどうなるのか、それは分からないが、彼が素直にこちらの要求に応じるとはどうしても思えなかった。

 ほとんど底をついている魔力を費やしても、眼下の男を治療する意味があるのか。レンリは迷っていた。

 ところが、隣の女は同じようには考えなかった。


「ヒールフル」


 スカーレットが杖を向けると、むき出しになっていた男の傷が癒されていった。


「ちょっと! 勝手に!」

「待ってたら本当に死んじゃうわ」

「それならそれでよかったんです」

「いいえ。ちゃんと償いの機会を与えなきゃ」


 両手を地に着いて、男がふらふらと身体を起こす。覚束おぼつかない足取りで二人の前に立った。


「約束です。僕の記憶を返してください」

「わ、分かった」


 ダルフが足を踏み出す。二人は、油断なくその様子を見守っていた。


「女王陛下、万歳!!」

「アイスバーン!」


 刹那。

 ダルフは隠し持っていた銀の刃を驚くべき速さで突き立てた。咄嗟に身体を反らしたレンリの胸へと。

 直後、局所的な極低温が、ほくそ笑む男の全身を一瞬で氷漬けにした。青白い世界に閉ざされたまま、ダルフ・シュトロームは息絶えた。


「レンリ!!」


 黒光りする柄が、倒れたレンリの鎖骨の下から生えていた。ゆっくりと引き抜く。鮮血が噴き出し、うめき声が溢れた。


「くっ……うっ……」


 日頃から決して手放さない外聞を全てかなぐり捨てて、スカーレットは無我夢中で光を呼んだ。


「オーラ! ごめんなさい。私が彼に治癒を掛けたから」


 まずは、魔力回復速度を上げる。少しでも早く、傷が癒えるように。


「ヒールフル! ごめんなさい。あなたにこんな思いをさせるはずじゃなかったの」


 スカーレットの呼び声に答え、暖かな光がレンリの周りに終結する。


「ハピネシア! お願い!」


 最後に、痛覚緩和の上級魔法。

 全身を蝕む苦痛から一時的に解放されたレンリは、優しげな声を絞り出した。その顔には、親しき者にのみ分かる控えめな微笑みが浮かんでいた。


「あなたは……いつも詰めが甘いんですよ……。スカーレット」

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