37 届かぬ声と触れた唇 2/2
曖昧な意識が返ってきた時、レンリの前には二人の女が立っていた。
一人は、同僚のナナハネ・ハートリー。誰にでも好意的な態度を見せる、優しさという言葉を体現したような女である。
一方、隣に立つ長身の女は、どこか
呆然と見つめるレンリの内に疑念が生まれる。
——この人はいったい。
3つの視線が交錯した。すると、彼の身体は迷うことなく長身の女の方へと吸い寄せられていく。
3人は、ほとんど一斉に声を上げた。
「レンリ!」
「スカーレットさん、ナナハネさん」
「レンリさん! 無事でよかったです」
——スカーレット? こんな人、僕は知らないはずなのに。
しかし、戸惑う彼の内心が、ここでの行動を決定付けることはない。
レンリの身体は自分勝手に動き、両腕を女の背へと回してぴったりと密着の姿勢を取った。触れ合う距離に、現実感の薄い女の顔がある。
——隙のなさそうな人。あまり仲良くできそうにはありませんが。
ところが、直後、彼は驚愕することになる。
身勝手な自らの腕が、そのまま彼女の頭をぐいと引き寄せたかと思うと、目前の小さな唇に自身のそれを強く押し付けたのだ。
「ん……?」
青い瞳が揺れたのは、驚きからか、戸惑いからか。懐かしい匂いと甘美な声、そして柔肌の感触に至近距離から揺さぶられ、甘い痺れがレンリの脳髄を溶かしていく。
身体の自由が利かない今の状況も、同僚に見られていることも、相手が誰であるのかさえどうでもよくなるような、熱の籠った口づけだった。
つぎはぎだらけの記憶の中に、ちらちらと映じる影がある。
——僕は、この人を知っている?
頭を
自分勝手に動く口から、強気な台詞が飛び出す。
「くるのが遅いんですよ。ここの魔法師はガスパーさんが粗方制圧してくださいました」
——僕は、何を言っている。
「遅くなってしまって本当にごめんなさい。だけど、あなたが元気そうでよかったわ」
「ガスパーも無事なんですね。ガスパーはどこなんですか?」
「彼はこの屋敷の持ち主を説得しているところです。彼と合流して、早いところ脱出しましょう」
ありもしない事実を平然と並べ立てていく。その出所が他ならぬ自分自身であると、レンリは未だ信じられずにいた。
——このままでは、彼女たちが。
「こちらです。ついてきてください」
レンリは、何の躊躇いもなく二人に背を向け、足を踏み出した。
伸びた廊下は曲がり角の多い一本道。角を左へ曲がり、それから右へ、さらに左へ。間もなく、開けた空間が3人を出迎え、正面に竜の頭部が彫り込まれた大きな鉄扉が現れた。
その部屋は、レンリが奇妙な光景を目の当たりにした場所。空っぽの心で魔法絵を描き続ける、狂った魔法絵師のアトリエだ。
レンリの脳裏を、赤い髪の英雄が過る。
——この中には、あれが。このままでは——。
しかし、どんなに悪い未来を予感しても、それを阻止する手立てを今の彼は有していない。
自身の手が扉へと伸びる。両手に伝わるひんやりとした金属の感触。支配者に従い、その手が扉を開こうとした、その刹那。
空気が、大きく振動した。
「ディープ!」
「スイーティ!」
「っ!?」
レンリの身体は反転していた。いつからそこにあったのか、右手には愛用の杖が握られている。
驚いたのはそれだけではない。振り返った視線の先、氷の表情で自身に漆黒の杖を向ける女がいた。
二人が放った魔法は、どちらも対象を眠らせるもの。誰も倒れていないということは、二つの魔法が効果を打ち消し合ったということだ。
杖を突き合わせたままの体勢で、女は冷ややかに問う。
「あなたは誰なの?」
「何のことですか?」
「ほんの少しだけど、魔力痕から氷属性が見えたのよ」
——魔力痕?
聞き覚えのない単語に、レンリの思考は中断を余儀なくされた。
「おかしいと思ったの。あの子は、こんな状況であんなキスなんかしない。そんな人じゃないもの。応えなさい。彼をどうしたの? ガスパーくんはどこにいるの?」
ほとんど見かけない闇の杖をレンリへと向けて、その女は毅然と問い詰める。傍らのナナハネは、ブリッツブレードを構えて臨戦態勢を取っていた。
——まるで、僕のことをよく知っているような言い方ですね。ナナハネさんも、この人の判断であれば、例え仲間であっても杖を向けることを辞さないと。この人は、いったい——。
「ふふっ、はははっ! ははははは!」
物思いに耽るレンリを差し置いて、状況は刻々と動いていく。
レンリの中のダルフは、およそ本人の物とは思えない声量の高笑いを辺り一帯に響かせた。そして、サザンフォレストの切っ先をナナハネの方へと向けて、冷えた笑みを見せつけた。
「もうちょっと遊んでやろうと思っていたんだが、ばれちゃあ仕方ないなぁ。あの錬金師の男なら、仲間の前で油断したところを襲われて、無様に転がってるだろうよ。死ぬかもなぁ、もしかしたら」
「ガスパーが? そっ、そんな、どこに?」
顔を蒼白にして動揺するナナハネを見て、レンリの中の邪悪なる魔法師はほくそ笑んでいるに違いない。勝ち誇ったように言い募った。
「探せるもんなら探してみろよ。この俺様を止められたらの話だがなぁ!」
「レンリさん、やめて!」
ナナハネの制止も空しく、サザンフォレストが輝いた。
「ダブル・アルバード!」
「エクスガード!」
ナナハネに向けて降り注ぐ大地の本流を、現れた氷の壁が相殺する。女の白い手の中では、いつしか氷色の杖が輝いていた。
氷結の結界にナナハネを守らせながら、その主はレンリに純然たる敵意を向けた。
「あなたのお相手は私です。ナナハネちゃん、ガスパーくんをお願い」
「はい!」
走り出すナナハネの背を、追うことはできない。彼女との動線にその身を躍らせて、女は今一度宣言した。
「お相手しましょう。さあ、おいで!」
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