35 背信の序曲

 ◆26



 荒々しいノックの音に身を固くしていたガスパーは、入室してきた人物を見るなりたちまち全神経を弛緩させた。


「何だー、レンリじゃーん。ここまできて大丈夫だったのー?」


 頼れる治癒師は、平常通りの落ち着き払った表情で尋ねてきた。その冷静さを頼もしく感じて、応える声が弾む。


「それより、課題の方は終わりましたか?」

「合格だってさ。アダマンタイトの杖二本で乗り切ったぜい! 一回失敗して壁に穴を開けちまったのは内緒だよん」

「あなたの錬金の才能は本物ですからね。これで、万が一のことがあってもあなたがレニス側から切り捨てられることはありませんね」


 一瞬だけ考え込むような顔をしてから、レンリは淡々と言った。そしてまた、思案顔をする。


「え? どゆこと? レンリは?」

「魔法絵は0か1かですから。完成できなければそれまでです」


 こともなげに言ってのける様子を訝しく思う。いつもの彼なら、ここで自嘲の表情でも浮かべそうなものだが、今の彼は実にあっさりとしたものだった。

 ただでさえまとまった時間が取れない中で、思い描いていた物と出来上がる物との乖離に思い悩んだり、修正のきかない失敗に落ち込んだりする姿を、幾度となく目にしてきた。

 名実ともに魔法絵を完成させられたことはないと唇を噛んでいた彼が、こうも容易く敗北宣言をするものだろうか。

 考えている時にはすでに口走っている。それがガスパーという人間だ。


「レンリは? レンリはそれでいいのか?」


 しかし、彼の心の動きに注目していた錬金師は、一瞬にしてそれまでの入り組んだ思考を、全て放棄することになった。他ならぬ彼自身の言葉によって。


「僕はさっき万が一と言いました。退路の用意ができたんです。これからこの邸宅を脱出しますよ」

「脱出って、そんなことできるのか?」

「できます。ついてきてください」


 力強く頷いて見せる同僚を心強く思う一方で、再び疑心が顔を出した。普段何をするにも慎重な彼が、ここまで未来を楽観することがあっただろうか。


「でも、俺等が勝手に逃げ出したら、アリーはどうなる?」

「さあ」


 気のない相槌のあとに、思案する素振りが続く。今度の算段には、先刻までよりも少し時間を要したらしかった。

 やがて、自らの左胸をとん、と拳で軽く叩いて、治癒師が僅かに口角を上げた。


「苦情ぐらいは言われるかもしれませんが、命を取られることはないでしょう。僕等が気にすることではないと思いますよ。時間はありませんよ」

「よっしゃ、分かった!」


 全幅の信頼を置く仲間に自信に満ちた相貌で促されて、これがわななどと考えられようはずもない。ガスパーは、ただ真っすぐな期待の瞳だけを向けて、大きく頷いていた。

 仲間の相貌に酷薄な笑みが広がっていることには気が付かずに。彼の手にある杖が、次の瞬間に自らを強襲してくるなどとは想像すらせずに。


「では、まず、脱出の前に」


 その声に宿る底冷えするような響きを不審に思った時には、すでに運命は決していたと言ってよい。

 自身の身に何が起きたのかを理解する前に、ガスパーの意識は光ある世界を離れていったのだった。


「ダブル・スイーティ!」


 途切れる直前の意識に、聞き慣れた仲間の声が引っ掛かったような気がした。


「お前はお呼びじゃないんでな。事が終わるまで、少し寝ていてもらうぜ」



*



 足元に転がる人影が思い焦がれる男の物だと気が付いて、少女は短い金切り声を上げた。


「きゃあっ! ガスパー様ぁ! どっ、どうしたの!?」

「問題ない。眠っているだけだ」


 無感情な声が部屋の奥から届き、そこに人がいることに気付いた。白髪の男が地べたに座り、何者かの絵を一心に描いている。

 アウリエッタは、動転する旨を落ち着かせながら、尋ねた。


「あ、あなたは?」

「ダルフ様にお仕えする者だ。これからこの屋敷が襲撃されるという情報が入った。襲撃者の人数は二人。この男の仲間だそうだ」


 白髪の男は、何の感情も籠もらない顔で告げた。目線は手元から離さず、こちらに目をくれることもない。

 あまりに起伏のない語調に、アウリエッタはその台詞が意味するところを捉えかねた。悟り切らない頭で、たどたどしく聞き返す。


「そ、それって、まさか勇者……?」

「奴等は、俺たち全員を殺戮対象と判断した。あなたも例外ではない。出会えば一瞬で殺される。正義の名の元に、慈悲などありはしない」

「っ!」


 男の声が反響する。足から脱力して尻もちをついた。

 言葉が出ない。何も考えられない。いったい自分が何をしたというのか。

 絶句する少女に構わず、男はなおも続けた。彼の台詞が、アウリエッタの胸中に大きな爪痕を残していく。


「そこで、陛下からのご命令だ。られる前にれ。打たれる前に打て。奴等の言葉に耳を貸すな。以上だ」

「そんな……」


 勇者が自分を害そうとしている。思い人を奪いにくる。殺される。殺されてしまう。

 動作不良を起こした脳が、とうとう考えることをやめた。ぐらぐらと揺れる視界に、近付く白髪が映った。


「勇者の仲間がこの男を探しにくる。あなたは誇り高き近衛兵団長のご令嬢。必ずや生き延びてくれると信じている」


 少女の手に、ひんやりと固い物が触れた。空を渡り、風を従え、疾風を呼ぶ杖。


「これは、そこの男があなたのために作った物だ。あなたの思うままに振るいなさい」

「ガスパー様が、私のために……?」


 男の台詞には温度などない。しかし、その内容は、追い詰められた視野の狭い小娘を、一人の戦士へと駆り立てていく。

 いつしか、アウリエッタの両手は、不思議な輝きを放つ一枚の魔法絵を握り締めていた。


「私の最高傑作を一枚差し上げよう。呼び出したくば、名を呼びなさい。必ずやあなたの力になるだろう」

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