34 勇者と治癒師 3/3

 魔竜は無事に討伐され、女社長は名実ともに勇者の栄誉を手に入れる。3人の仲間は当然のように会社に残り、新たな日常が始まった。

 時の経たないうちに、レンリは彼女を異性として意識するようになっていた。

 彼女が見せるあらゆる表情から目が離せなくなった。笑顔の裏にある心の揺らぎを覗き見ようと必死になった。仮面の隙間から時折見える、むき出しの心に釘付けになった。

 彼女に自分の存在を意識させようと、レンリはあらゆるアプローチを試みた。密かにスケジュールを確認し、用事を作っては彼女の元を訪ねた。好物だと聞けば自分の口には合わない甘味をせっせとこしらえ、妖精の絵が好きだと言われれば、彼女のためだけに妖精園に通い詰めて作品を描いた。

 あんなにも何かに熱中した日々は、後にも先にもあの頃の一度きりだろう。とにかく自分らしくない所行だった。

 しかし、そんな必死の努力も、無為なばかりだった。このまま遠回しに伝え続けるだけでは、絶対に彼女が振り向くことはない。ある瞬間に、レンリは気が付いてしまったのだ。

 魔竜の討伐から半年後。その時は、全く以って予想外のタイミングで訪れた。


「えっ? あの……。ごめんなさい。何か私、聞き間違えたみたい」


 ストレートに思いを伝えた結果、返ってきたのがこの台詞であった。破れかぶれになって、勢い任せに並べ立てた言葉は、今思い出しても恥ずかしく、とても冷静に述懐できるようなものではない。


「僕は、あなたを好きになってしまいました。社長でもなくて、勇者としてでもなくて……。そのままのあなたを愛しています。ずっとあなたの傍にいさせてください。あなたの抱える苦しみを、あなたの感じる幸せを、僕にも分けてほしいんです」


 思いに任せ、早口で甘ったるい台詞を口にしたあとは、がらんどうの空気と耐え難い後悔が襲ってきた。女の様子を確認するだけの余裕は残っているはずもない。

 彼にできたのは、自らの内で暴れる鼓動と戦いながら、ひたすらに救いが差し伸べられるのを待つことだけであった。

 どれほどの時間が流れたあとだったか、救いの手はやってきた。

 レンリの目を真っ向から見つめて、彼女は答えた。自分が普通の人間でないこと、徹夜も辞さないほどの仕事人間であること、色気や女性らしさとは無縁であること、そんな分かり切ったことをたっぷりと前置きしたあとに。


「それじゃあ……。あなたが飽きるまで、隣にいてもらおうかしら?」



*



 彼女との距離感を探る日々の中で、気付いたことがあった。彼女は、しょっちゅう部屋の中で手帳と睨み合っている。

 日記を書いていることもあったが、大抵は仕事関係の記録をまとめ、あるいは探しているようであった。

 ある時のことだ。レンリが話しかけても上の空で手帳を読み続けるので、むっとして尋ねたことがあった。


「確かに記録を残すのは大事なことですが、そんなに書くことがあるんですか?」


 すると、彼女は窓の外に目をやり、次に筆記具をそっと置いて、それからこんな質問を投げかけてきた。


「ねえ、レンリ。私が一番恐れてることって、何だと思う?」

「はい? 怖いものなんて何もなさそうに見えますけど」


 他愛のない話題だと判断したレンリは、揶揄からかい半分でそう応えた。しかし、返ってきた言葉には、笑みも戯れも含まれてはいなかった。


「忘れることよ」

「……はあ」


 真面目に告げられた言葉の意味は、しかし、今一つに落ちなかった。そんなレンリに彼女が語ったことは、以下のような話だった。


「私ね、今の身体になってから、記憶を留めておくことができなくなったの。せいなのか、肉体の修復にが使われたからなのか、そのあとに受け入れたが関係しているのか。いろんな原因が考えられるけど、はっきりとは分からないわ。あなたは、私に告白してくれた時のことをどのくらい覚えてるかしら?」

「まだ3ヵ月も経っていませんし、全部覚えていますよ。そう簡単に忘れられるはずないじゃないですか」

「私、何て返事したのかしら?」


 一転して、戯れるような調子で尋ねられる。その時、冗談めいた台詞の中に、何かの感情の片鱗へんりんが見えた。反射的に、名を呼ぶ。


「——さん」

「だから、私は日記を書くの。そして読み返すの。忘れたくないことも、わりとどうでもいいことも、なるべく文字にして手元に置いておきたいから」


 不意に、彼女が俯いた。艶やかな長い髪が、肩を伝って落ちていく。サファイア色の瞳には、一滴の憂い、ただそれだけが落ちていた。


「家族も、親友も、友人も、仲間も、たくさんいたはずなのに。大切だったはずなのに。私の中に、彼等はもういない。名前と思い出の断片を書いた日記帳も、もうずいぶん前に失くしてしまって……」


 反射的に伸ばしかけた手が、ぴたりと動きを止めた。愕然と、その手を見つめる。


「罪も過ちも、数えきれないくらい犯してきたわ。本当は、ずっと背負っていかなきゃいけないことがたくさんあったはずなの。忘れることなんて、許されない。それなのに……私はずるい……。本当にずるい……」


 500年という法外な時を、魔竜との争いのために費やしてきた彼女。

 その間、無用な期待や不安を抱かせないため、魔竜との戦いに関する詳細は、世間には一切公表されていなかった。一方で、魔法教会からは公認魔法師としての期待を掛けられ、魔竜討伐の重責を負わされていた。

 かと思えば、世界から魔竜が消えたと知るや、それまでの扱いが嘘のように勇者だ英雄だともて囃される。

 そういった彼女の背景を、少しは理解できたつもりでいた。しかし、心底から彼女を理解することはできないのだと、唯一の存在になることは叶わないのだと。

 非常に複雑な星回りの彼女と平凡な自分との差を、はっきりと突き付けられた心地がしたのだ。

 果たして、このまま彼女の傍らにいる資格が自分にあるのだろうか。自問するレンリの様子を彼女がどのように捕えたのかは分からない。

 ふっ、と。宙に浮いたまま所在をなくしていた手が、強く引き寄せられた。思わず素っ頓狂な声が漏れる。


「え……?」


 唐突にぐっと顔を寄せてきた恋人は、曇りのない瞳を輝かせて、笑った。


「だから、私は、自分勝手に生きていくの。私がみんなを忘れても、みんなが私を忘れられないように。私が私を見失わないように。だから、もしおかしなことをしようとしてたら、叱ってくれると嬉しいわ」


 憂いの欠片が一粒の雫となって、その相好そうごうを彩っていた。


「分かりました。どうぞ好きにしてください。ただし、僕も容赦はしませんから」

「ええ。望むところよ」


 きらきらと微笑む彼女の姿が色褪せ、滲んで、溶け出すように崩れていく。不完全なまま時間が経ってしまった魔法絵のようだと、レンリは内心で苦笑した。


「さあ、忘却の時間だ」


 冷酷な男の声が、現実感を伴って降りてきた。それで、レンリは自らが置かれた境遇を思い出す。

 固い地面に接した背中はとうに感覚が失われていた。


「愛する者に別れを告げるといい。二度と思い出すことはできなくなるのだからな」


 選択の時は迫っていた。

 『絶対支配』の異形者いけいしゃ、ダルフが提示した条件は3つだ。

 魔法絵、たま呼び、即ち死者の蘇生、ベルベリアの情勢、勇者の出自に関する全情報の提供。

 レニスの女王に対する絶対的な服従。魔法絵師、または治癒師として、生涯に渡り当該国に尽くすこと。

 一つとして、応じるわけにはいかなかった。どうあっても従えるはずがなかった。

 失う恐怖で全身が小刻みに震えていたとしても。彼女に会えなくなることが身を裂かれるようにつらくとも。

 それでも、恋人が人生を懸けて守り通してきた物を、こんな非道な相手に渡すわけにはいかない。

 そんな彼の苦悩を、葛藤を、そして決心を、目前の男は無慈悲にせせら笑った。


「さあ、お前の杖を返してやろう」


 深緑しんりょくの杖が顔の横に投げ落とされた。掴もうと持ち上げた手は鉛のように重く、異形者を相手取るにはとても心許こころもとない。


「もう時期ここに勇者が到着するそうだ」


 勇者が、彼女がこちらに向かっている。その事実は、ともすれば希望にも見えるものだ。

 ところが、レンリの胸中には言い知れぬ不安が募るばかりであった。少なくとも、ダルフが足取りを掴んでいるということは、彼が何かしらの策略を用意しているということだ。


 ならばせめて、今の自分にできることを。


「アルバー……!」


 が、しかし。

 上げた声が途絶えた。構えたはずの杖が落ちてきた。

 身体が縛り付けられる。意識が揺られ、溶かされ、めちゃくちゃに拡販されていく。

 そして、自身の唇が、再び所持者の意思に反する動きをした。


「さあ。お前には、せいぜい役立ってもらうとしようか」


 残酷な悪夢の始まりであった。

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