32 勇者と治癒師 1/3

 ◆25



 薄暗く、なだらかな思考の水底すいていを、朧げな意識が揺蕩たゆたっていた。

 全身を包み込む心地よい重さの中に、無作為な情景が切り絵のように現れ始める。間もなくそれは追憶の形を取り始め、音と動きを伴って懐かしき光景の再生を始めた。


 思えば、3年前。彼女との関係は、嫌悪感から始まった。

 当時の職場であった、ベルベリアの国立クレイドアカデミー、中等部。午前中最後の授業を終え、教室を出た瞬間、衝突しそうな距離に女が突っ立っていた。

 背は高く色は白く、あまり見かけない淡い青色の髪が印象的だった。

 驚くままに後退ったレンリに、女は友人に挨拶をするような軽い調子で話しかけてきた。


「ごきげんよう。あなた、海って好きかしら?」

「はい? あの、それ、僕に言ってます?」


 当然初対面だったレンリは、人違いだと思ったのだ。

 ところが、女はその質問には答えず、こんなことを言った。やけに誇らしげな顔だった。


「カルパドールはいいところよ」

「今日は授業参観も学校公開もやっていませんよ。勝手に校舎内に入ってこられては困ります」


 速いところ他者に押し付けるか追い返すかしようと算段を立てていた。しかし、次の彼女の台詞で、自身が前代未聞の人事命令を下された身であったことを思い出したのだった。


「初めまして、レンリ・クライブくん。私は——」


 彼女の顔で、声で、記憶は鮮明に再生されている。しかし、名前の部分だけが綺麗に抜け落ちていた。


「こう見えても会社の社長をしているの。来月からあなたの上司になるわ。せっかくこうして知り合えたのだし、仲良くやりましょうね」


 本音の在処を見せない微笑と馴れ馴れしい態度が、警戒心の強いレンリを苛立たせた。そもそもの話、身も知らぬ人間に突然このような話を持ち掛けられて、何の疑心もなく受け入れられる者など存在するのだろうか。

 教師をしていたレンリの元に、遥か遠く離れた国の、それも得体の知れない会社への出向という辞令が下りたのが、つい10日ほど前の話。辞令を聞いてからというもの、レンリは自分に落ち度があっただろうかと苦悩し、眠れぬ夜を過ごしていた。

 若さと勢い任せで職場恋愛をした上、それを破談にしてしまったことだろうか。あるいは、生徒への過干渉が目に余る保護者に苦情を申し立てたことだろうか。クラブの顧問という名のボランティア活動を断り続けていたことで、まさか目をつけられたとでも言うのだろうか。

 そのような堂々巡りの思考は、眼前の女を見た瞬間に無用のものであったのだと悟った。警戒心をむき出しにして詰め寄る。


「何なんですか、いったい。僕とあなたは顔見知りでも何でもないはずです。なぜ僕のことを知っていたんですか? 僕をどうしようと言うんです?」

「あなたのことをずっと探していたの。ベルベリアで魔力痕を見かけてからずっと。やっと会えて嬉しいわ」

「いったい何の話をしているんです? 僕の質問に答えてください」

「そんなに警戒しなくても、怪しい者ではないわ」

「どう見ても怪しいんですけど?」


 何を言ってもまともな回答が得られることはなく、レンリの苛立ちは募るばかりだった。それでも、この時はまだ、定められた期間をやり過ごせばこの場所に戻ってこられると思っていた。



*



「あのう。何なんですか、これ。何をさせるつもりですか?」

 移動日初日。仕事着だと渡された服は、どう考えても会社員の着る物ではなかった。

 至るところに金属の装甲をあしらった服はとにかく重く、履き慣れないロングブーツは歩行という日常の行動冴え難解にした。

 何をするにも四苦八苦するレンリに安物の大地の杖を差し出して、社長は前のめりな笑顔で語りかけてきた。そんな表情を向けられる覚えなどないレンリは、ひたすら不気味に感じるだけだった。


「思った通りよ、レンリくん。あなたには、優秀な治癒師の才能があるわ」

「はあ。確かに治癒魔法は使えますけど。僕に治癒師になれって言ってます?」

「もちろん」

「ちょっと待ってくださいよ。病院なんて書いていましたっけ?」


 レンリの知る限り、治癒師の就職先として思い浮かぶ主な場所は病院ぐらいのものだった。そんな彼の思い違いを、目前の女は得意げに訂正した。


「治癒師が必要なのは、何も病院だけじゃないわよ」

おっしゃっている意味が分かりません。僕は、交易会社に出向しろと言われてきたんですよ。このオフィスが職場なんじゃないんですか?」

「その認識で正解よ。さあ、まずは体力をつけましょうか。これからリットハイム街道を3周しましょう」

「はあ?」


 当初の想定と全く異なる展開についていけず、レンリはとにかく反発し続けた。けれど、その度に返ってくるのは的外れな返答か、全く関係のない話題ばかり。

 とかく会話の噛み合わない上司に引き摺り回され、この頃のレンリは自分の境遇を嘆いてばかりいたように思う。しかし、腹を立てる気力も湧かないほどに、彼には体力が不足していた。



 それから一カ月間は、控えめに言っても地獄の日々であった。

 ウォーキング、ランニング、戦闘訓練、弱小な脅威の討伐、素材の採取。隙間なく組まれた強化メニュー。

 より希少な素材を採取できるようにと社長は説明したが、レンリは納得してはいなかった。

 わざわざ戦闘未経験者の自分を借り出す理由が分からなかったし、彼以外の社員が皆戦闘とは無縁の仕事をしていたことも気に入らなかった。ただ、その一方で、この社長には何を言っても無駄だと諦めている部分もあった。


「……。もっ、もう……。勘弁、してください……」

「そうね。最初に比べたらだいぶ体力もついたわね。午後からは戦闘訓練にしましょう。私に魔法を当てられたら今日の仕事はおしまい。どう? 魅力的な提案だと思わない?」


 カルパドールの東に伸びるリットハイム街道は、初心者にとっては絶好の討伐スポットで、レンリは毎日のようにそこで修練を積まされた。彼女とともに戦闘訓練や脅威退治をこなす旅、この社長が尋常でない強さの持ち主であることはすぐに分かった。


「当てさせる気ないでしょう、あなた」

「私の素早さはプリンと対して変わらないわよ。私の初級魔法を避ける練習の方がよかったかしら?」

「どっちもやりたくありません」

「どっちもね。いい心掛けだわ」

「話を!」


 相も変わらず話の通じない上司に対し、ささやかな口答えができる程度には、新しい環境での生活にも慣れ始めていた。そうして、気が付けばレンリは、入社4ヵ月目を迎えていた。



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