31 女王の愛 2/2
と、それまでこちらに向けられていた女王の瞳が、不意に離れていった。従者に持たせた長いドレスが
「おのれ、
国家間の関係について、深いところは当然レンリの理解の
とは言え、魔竜討伐の旗の
女王はなおも続けた。全身から漏れ出す暗い感情が、レンリの身体の自由を阻害する。
「奴等が戦争を仕掛けてくると言うのであれば、攻められる前にこちらから攻め落とすまで。圧倒的な武器と、圧倒的な兵を用いてな。全ては、我が国の繁栄のため」
「それで、魔法絵と錬金術を頼ったというわけですか」
意を決し、レンリは口を開いた。女王の手に濃い青の杖を突き付けられ、本能的に身体が震える。
「ほう。まだそのような口が利けるか。思いの他骨のある男よ」
両手を支えにして、ついにレンリは立ち上がった。自分を取り巻く3人を見回す。
そして、クライシーになりすましていた男に目を向け、はっきりと言った。
「なぜ誰も止めないんですか? こんな無謀な計画を」
「無謀、だと?」
「こんないい加減な計画が成功すると、あなたは本気で思っていたんですか? なぜ誰も意見しないんです? この方に真実を教えないんです?」
腹部に衝撃があり、ふらついたところを横から殴打される。どちらも男によるものだ。上半身を壁に打ち付けたが、そのおかげでどうにか倒れずに済んだ。
前傾姿勢を取って、大きく一度、咳き込む。
再び男の足が動いたが、振り抜かれることはなかった。
「……何だ、それは」
戸惑いを含んだ囁きが、男の足を制止させた。艶のある声は困惑に染まっている。
「こやつの言う真実とは何だ。応えてみよ、ダルフ!」
ダルフと呼ばれた男は、猜疑を向けられて
「こっ、こいつは
レンリは考えていた。
女王は、与えられた誤情報を疑いもしない様子だった。彼女が魔法絵師を集めるように画策した人物がいるのではないか。思い込みの激しい彼女を愚かな道に誘導するのは、そう難しいことではなかったのではないか。
レニスを暴走させることで利益を得られる可能性がある国、そう考えていの一番に思いつくのはベルベリアだが、さすがに飛躍しすぎている気もする。
彼が思案を深めている間に、女王は真相の究明を先送りにすることを決めたようであった。
「まあ、良い。真偽は後ほど暴かせるとしよう。ダルフ、良いな?」
「は。仰せのままに」
「この男は『絶対支配』と呼ばれる人智を超えた能力を持っておる。なかなかおもしろい力でな。お前もとくと味わうが良い」
仕切り直すように、女王は語り始めた。いつの間にやら用意されていた幅広の椅子に、一人だけ腰を下ろしている。
彼女の動きに合わせ、従者とダルフが足を曲げて地べたに座したので、レンリだけが棒立ちになっているという奇妙な構図となった。
いざという時にすぐに動けるよう、命じられても座るつもりはなかったが、意外にもそのことに触れてくる者はいなかった。
先の女王の台詞は、ダルフが
「俺様は、人の記憶を閲覧することができる。その記憶に鍵を掛けることだってできるぜ」
「なるほど。ロダン・クライシーの記憶が混濁していたのは、あなたのせいだったわけですね」
レンリが得心の返答をすれば、女王が透かさず言葉を引き継いだ。
「さすがは勇者一行の頭脳と呼ばれる男よ。我が国に生まれておれば、いっそう重宝してやったものを。所詮、お前は知らぬであろうな。遥か昔、死者の魔法絵にはその者の魂が宿ると考えられておった。『
女王を見下ろす格好のまま、あくまでも理性的に、レンリは応えた。
「確かに、それで英雄たちの魔法絵に行きついた理由は分かりました。ですが、魔法絵だけでは死者は呼び戻せません。あなたの
途端、
「なぜ、お前がそのことを知っている」
「さあ、なぜでしょうね」
「では、応えてみよ。完全な
「さあ、そこまでは」
余計な感情を見せないように努め、レンリは
「知っておる顔だな」
「知るわけないでしょう」
決して口にすることはできない回答が、彼の脳内には確かに存在した。
死者の魂を弄ぶようなことが二度と起きてはならないと、過去の偉人たちが心血を注いで秘匿した
「ダルフ。この男の記憶を洗え。仔細見逃さず、報告せよ。早まって殺すでないぞ」
「は」
女王は温度なき声に戻ってそう言いつけると、従者にドレスの裾を支えられながら去っていった。後に残されたのは、ダルフという
女王の気配がなくなった途端、ダルフの態度は変貌した。蔑むような視線を真っ向からレンリへと浴びせてくる。
「さっきはよくもこの俺に恥じをかかせてくれたな。まあいい。それじゃあ、始めるとしようか。まずは、宣告しておこう。これからお前の記憶を一日ごとに忘れさせてやる」
「僕を廃人にしようと言うんですか。ロダン・クライシーのように」
恐れを押し隠して、至って冷静な返答を返す。記憶を操作する異形とは、また厄介な相手に目をつけられたものだと思いながら。
ダルフが喉を震わせた。
「くくくっ。余裕ぶっていられるのも今のうちだぜ。誰しも大切な記憶は忘れたくないものだ。選ばせてやるよ。幸せな記憶とともに一生女王様にお仕えするか。何もかも分からなくなるまで虚勢を張って、女王様の言いなりになるかを」
「女王に使えたら、僕はどうなるのですか?」
「
「それは……!!」
自身のこめかみを指して、ダルフが鼻を鳴らす。その口が紡ぎ出した女の存在が、刹那のうちにレンリの全身を奮い立たせた。
彼女を守るために、この瞬間に打てる最善手を考える。まずは、でき得る限りの抵抗を。この男の手の内から脱却することが、今の最優先事項だ。
ところが。
レンリのそんな決意は、運命に
初めに、視界が歪んだ。次に、五感が曖昧になる。何かに侵食される感覚。得体の知れない異物が、どこからともなく体内に侵入してくる。
声は、出なかった。それどころか、指一本さえ動かすことができない。
霞みの掛かった意識の中で、動かないはずの自らの唇が勝手に言葉を紡ぎ始めた。
「まずは、一番大事な人間の名前から消していくとしよう。どれどれ? 最も浅層にあるお前の記憶は……」
五感が、思考が、意識が、めちゃくちゃに拡販されていく。何もかもがままならない胸中で、レンリは愛する者の名を呼び続けた。
——スカーレットさん。
自身の口が再び言葉を発する。
「女王陛下に身を捧げると誓うか?」
当然、応えられるはずがない。その権限が今はないのだから。
分かり切った結果を
「時間切れだ」
そして。
抵抗することも許されないままに、失ってしまった。世界で最も愛する者の名を。
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