25 暁の戯れ

 ◆21



 夢の中にいる間だけ、思い出せることがある。

 自らの深層よりも深い場所に眠る、幸福で暖かな記憶。束の間触れることを許された、遥か遠い彼方の刻印。

 色彩も輪郭も曖昧あいまいな風景の中で、目の前にある自分の姿だけが妙に生々しい。


「これは……。私?」


 不思議そうに尋ねたのは自分だろうか。応えるのは、どこか頼りなさげな男の声だ。


「魔法絵という物です。スカーレットと一緒に描いたんですよ。これからもお嬢様がお元気でいられるようにと。ただ、申し訳ありません。髪の毛の色だけは、どうしても再現できなくて」


 生まれ持った銀色の髪は、母親譲りのものだった。

 言われてみれば、なるほど、目の前の額の中の自分は、少しかげりのある空のような、淡い青色の髪をしていた。しかし、そんなことがまるで気にならないほど、目前の絵画は美しかった。

 完成された造形の相貌には、小さな花弁かべんが花開くような微笑みが広がっている。現実の自分とかけ離れた様相に、ミーシェの胸は熱ではち切れそうになった。


「魔法絵……。そんな素敵な物を私に? スカーレットったら、最近よそよそしいと思ったら、二人でそんなことをしていたのね。だけど、ありがとう、ライネス。嬉しいわ」

「24歳のお誕生日、おめでとうございます。ミーシェお嬢様」


 届いた祝福を聞いて、彼が微笑んでいるのだと分かった。かすんだ世界の中に、その姿を見ることは叶わないけれど。


「私の誕生日は明日なのだけど」


 ミーシェが言う。滲んだ感情は、困惑だろうか。

 男の返答からは、さらに大きな気持ちの揺れが感じられた。


「当日にお渡しできるか分かりませんでしたので。いいえ、違うんです。遅くなるよりは早めにと、思っただけで……」


 焦っているのだろうか。夢の中の自分も同じような感想を抱いたらしい。「何を慌てているの?」というとぼけた声がする。


「本当にありがとう。大切にするわね」


 いつしか、重みのある物が、両腕の中に納まっていた。


「お嬢様。僕やスカーレットが待っていることを、忘れないでくださいね。どうぞご無事で」


 彼は言った。祈るように、噛み締めるように。

 ライネスと、スカーレット。幼い頃から家族よりも近く育った二人は、その天寿を全うするまで、執事として、部下として、あるいは親友として、ミーシェの傍らに在り続けた。彼女が一度落命し、そして、望まぬ命を得てからも。


「ええ。帰宅したら、とにかく甘い物が飲みたいわ。スカーレットと3人でお茶会をしましょう」

「用意しておきますね」


 この時のミーシェは、想像もしていなかっただろう。その翌日、魔竜との決戦で自らの人生が一変することを。腹心とも呼べる彼に渡された魔法絵が、自らを世界に繋ぎ留めるくさびとなることを。





 勇み立つ胸に急き立てられて、スカーレットは目を覚ました。

 辺りはまだ仄暗ほのぐらく、星々の瞬く東雲しののめの空には細い雲が棚引いていた。

 窓を開け放って、ひんやりとした空気を迎え入れる。下を見下ろせば、4本足で地面を歩く真っ黒な妖精が目に留まった。同じ道を行きつ戻りつうろついている。胴体よりも長い尾が上空へと高く伸びて、別の生き物のようにひょろひょろと漂っていた。


「あら、チェルシーちゃん。一人で何か探し物?」


 二階の高さからの囁くような声量でも、優れた五感を持つ妖精にははっきりと届いたらしい。見上げた金色の瞳と目が合った。

 おいで、と呼びかけると、長い尾が左右に振られて、漆黒の身体がふわりと浮き上がった。

 彼女——彼かもしれないが——は、窓枠から身を乗り出したスカーレットの腕の中へと綺麗に着地した。顔と四肢をもぞもぞと動かして収まりの良い位置を探し、やがて大人しくなる。

 元より長いはずの体毛は短く整えられており、首には銀の輪飾りがつけられていた。

 丸まった胴体を撫でながら、スカーレットはうっとりと目を細めた。


「ふわふわ。気持ちい。どこからきたの?」


 彼女の問いに答えるように、チェルシーは可愛らしい声でにぃ、と短く鳴いた。だらりと垂れ下がっていた尾が今更のようにくるくると丸まって、美しい金の瞳が親しげに女を見上げる。

 かと思えば、女の腕の中から半身を投げ出し、しなやかな身体を長く伸ばして胸の上に零れていた髪の毛をもてあそび始めた。思わず女が顔をほころばせれば、両の手を使って縋りついてくる。


「あはっ。髪の毛がおもしろいの?」


 再びにぃ、と返事。恐らく肯定だ。

 チェルシーは、言語こそ持たないが、妖精の中では知能が高い方で、忠誠を誓った相手にはとことん忠義を尽くす義理堅い性格だと言われている。


 一頻り戯れて満足したらしいチェルシーが、今度はひょいと女の肩に飛び乗った。人間で言えば、よちよち歩きの幼児ほどの大きさがあるが、スカーレットは難なくその重さを受け止めた。

 透かさず身体を摺り寄せられ、スカーレットの表情が戸惑いに変わる。


「あなた、私が怖くないの?」


 彼女は、普段から妖精の類には懐かれないことが多い。先日休暇の際に妖精園に行った時などひどいもので、彼女が近寄ろうものなら皆蜘蛛の子を散らしたように逃げていくのだった。

 彼等が自分を避ける時、そこには嫌悪よりも畏怖があるのだと、スカーレットは気がついていた。体内に流れる人ならざる者の血が故だと、彼女は考えることにしていた。

 ところが、今し方肩の上で愛らしく鳴くこの妖精はどうだろう。物怖じをするどころか、器用にくるくると回りながら全身を擦り付けてくるのである。特に13妖精を愛するスカーレットが舞い上がってしまうのも無理からぬことであった。


「あなた、街の匂いがするわね。この辺りじゃなくて……そうね。レニスとかベルベリアとか、その辺かしら? もしかして、飼い主さんとはぐれちゃったの? 私の部屋に住む?」


 気をよくしてあれこれと話しかけてみれば、顔をぷいと背けて窓の外へと飛び降りていった。しなやかな身体が危なげなく地面に降り立つ。


「もう行っちゃうの?」


 惜しむ気持ちで呼び止めると、金色の瞳がスカーレットを見上げた。にぃ、と一声残して、瞬く間に路地裏へと消えていく。暖かな別れの響きをしていた。

 このチェルシーとの出会いが、後の彼女の運命を大きく揺るがすことになるなどと、いったい誰が予想できただろう。



「いたのよ。教会に、打ってつけの人が」


 誰の気配もなくなった眼下に目をやり、刻々と変わり行く早朝の空を眺める。


「今日明日で絶対に決着をつけてみせるわ。待っててね。レンリ」


 大きな物を得ようとすれば、それに見合う対価を支払わなければならない。

 これから行うことは、ともすれば非常に愚かな選択かもしれない。けれど、代償を惜しんで肝心な物を失うよりはずっと良いはずだ。

 光を追え。迷わず進め。最善の選択、最善の未来を信じて。


 あけぼのの空に優しい色の曙光しょこうが広がるように、スカーレットの心中もまた冴え渡っていくようで。それは、爽やかな朝の訪れに相違なかった。

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