26 描き続ける男 1/2
◆22
軟禁生活が始まって、5日目の朝がやってきた。
レンリとて、進んで汚名を着るような真似をしたくはなかった。しかし、レンリたちが脱出してから犯人確保までの間、残された被害者や令嬢たちを守るための最善手が、他に思いつかないのだった。
レンリは、シュリーネの協力で屋敷内のおおよその見取り図を手に入れ、昨夜のうちに頭に叩き込んでいた。そして現在、まだ足を踏み入れたことのない場所、母屋へと向かっている。
目的は、晩餐会の会場で声高らかに演説をしていた男、自称ロダン・クライシーと、
シュリーネによれば見張りは少なく、自分たちだけならばすぐにでも脱出は実行できる状態にある。しかし、被害者はもちろん、シュリーネ等令嬢を全員解き放つためには、主犯格を一網打尽にするしか方法はない。
そのためには、昨日手に入れた偽造の報告書とともに持ち帰り、彼等の罪を証明する物が必要なのだ。今回は、女王を相手取ることになるからこそ、万全を期しておかねばならないと考えていた。
さまざまな状況を想定していたにも関わらず、道中誰とも出くわすことがなかったのは、
他の棟にあった物とは比較にならない巨大な両開きの扉に手を掛け、一度大きく息を吐いた。ポケットに杖があることを確認し、意を決して取っ手を引く。
思っていた以上に大きな音が響いて、レンリは思わずたじろいだ。しかし、緊張が走ったのも一瞬のこと。中にはひんやりとした空気が滞留しているだけで、動く者の気配は微塵も感じられなかった。
やたらと広い玄関ホールを通り抜けると、開けた廊下が左右に続いていた。迷わず左へ。
母屋と呼ばれるだけあり、一つ一つの部屋が桁違いに大きい。食堂、浴場、キッチン、舞台のある部屋、何かの娯楽に使われそうな部屋などさまざまだ。
途中で何度か人の気配を感じたものの、手近な部屋がたまたま無人だったために隠れ
そうして慎重に広い廊下を進んでいくと、竜の鱗の模様を大胆に彫り込んだ扉が現れた。音を立てずにそっと開き、中を伺い見る。背の高い書架が並び、ガラスのテーブルと上等な革張りのソファーが据えられていた。人の姿は見えない。
情報は眠っているかもしれないが、闇雲に調べるには時間が足りない。
隣の扉には、大きな竜の翼が描かれていた。脅威や竜の絵画や剥製が壁一面に飾られた部屋だ。窓が大きく取られており、木製のハイテーブルとロッキングチェアが、訪れる者の身体の疲れを癒してくれそうだった。
そして、突き当りの部屋へ。扉には、迫力満点の竜の頭部が彫り込まれている。何もなければ図書室に戻る算段を立てて、レンリは扉をそっと開いた。
「……」
これまでに見たどれよりも広い部屋であった。しかし、窓の面積が小さいために、光が極端に少なく見える。
その薄暗がりのせいで、一角に飾られた絵がすぐさま目に留まった。
だだっ広い部屋の内壁を埋めているのは全て絵画で、よく確認すれば、どれも見覚えのある人物の魔法絵であった。
教師時代に世界史を教えていたレンリは、彼等の顔と名前を一人残らず記憶している。時代を超えて語り継がれる世界救済の勇者と、その仲間の英雄たち。規則的に並べられた彼等の絵は、時に身じろぎ、時に表情を瞬かせながら、はっきりと異質な光を放っていた。
その中に当然のように青銀の長髪を認めて、レンリは思わず凝視してしまう。女王からの課題であり、未だに完成させられずにいる英雄の顔を。
金や銀の魔法絵筆が出回るようになったのは、レンリが生まれた頃。
それ以前の魔法絵では、金や銀の色は他の色彩に置き換えられていた。そう、例えば、ミーシェ・ヴァーレイの髪が淡い青で塗られたように。
「……!?」
と、何者かの気配が意識の中に飛び込んできて、レンリの鼓動が跳ね上がった。殺気が含まれていないのを確認して、見回す。
地べたに広がったキャンバスと脇に並んだ大量の魔法絵筆、その横にぽつんと座る人影を見つけて、思わず声を上げていた。
「あなたは!」
やはり一欠片の反応も見せずに、彼はキャンバスに向かっていた。伸びた白髪を服の中に突っ込んで、中身のない瞳で淡々と、そしてひたすらに魔法絵を描き続けている。
彼のすぐ傍まで歩み寄ると、音量を上げてはっきりと話しかけた。
「ロダン・クライシーさん」
男の顔が初めて動いた。微かな驚愕を乗せてレンリを見る。
「やはり、あなただったのですね。そうじゃないかと思っていました。こんなに素晴らしい魔法絵をお描きになる方なんて、そうそういませんから」
彼の口が返答を紡ぎ出すことを期待したが、しばらくレンリに向いていた顔は、キャンバスの方へと移った。
「おもしろくも何ともないお話ですわよ」
シュリーネはそう前置きしてから、この屋敷の主、ロダン・クライシーという魔法絵師についての噂話を語った。
魔法絵の才能に恵まれていたクライシー。
ある日、ベルベリアで暮らす彼の元に、レニスの女王の使いを名乗る人間が現れ、宮廷魔法絵師の資格と広大な屋敷を与えられた。日が経たぬうちに名声が人を呼び、屋敷は毎晩蜂の巣を
周囲の人間に
尻を叩こうが宥めようが、一度手を抜くことを覚えたクライシーは一向に魔法絵を完成させない。女王の怒りを買った彼が、その後どうなったのか。語ることを禁じられた物語は、数カ月のうちに闇の中へと葬られた。
「あなたは心を殺し、この国の女王に屈することを選んだのですね。手に入れた名声を手放さないために」
「何のことだか分からない」
レンリが静かに総括すると、初めて男が答えを返した。一抹の感情をも排した声色で、それだけを口にする。
ここぞとばかりにレンリは畳みかけた。
「求められる魔法絵だけを描き続ける生活から抜け出したくはありませんか? 心の向くままに筆を握っていた頃に戻りたくはありませんか?」
彼の協力を得られれば脱出が容易になるという魂胆は否定できない。しかし、心が摩耗するほどの厳しいノルマから彼を解き放ちたいという思いも、また確かに芽生えていた。
ところが、眼下に座した男は、無感情にこう応じるだけだった。
「あなたが何を言っているのか分からない」
「
所詮は、独りよがりの自己満足なのかもしれない。それを自覚しながらも、レンリは弁舌を止めることができなかった。
どうか、再び彼の前に自由な世界を。祈りに近い思いだった。
返答までには間があった。次に開かれた口からは、僅かに、ほんの僅かに、戸惑いを宿した声が溢れ落ちた。
「人違いだ。私が魔法絵を始めたのは今年に入ってからだ」
「そんな……?」
レンリは探るような瞳を男へと向けた。真偽を推し量る物差しは、この男が嘘をついている可能性を悉く否定していく。
「あなたは、ロダン・クライシーさんではないのですか?」
「同じ名前の人間なんていくらでもいる」
「ここに住み始める以前は何を?」
「過去のことに興味はない」
「あなたは……」
風船が膨らむように、膨張する違和感。考えることを放棄している。否、そうするように仕向けられているのか。
まともな思考が許されたのはそこまでだった。
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