23 乙女の懇願

 ◆19



「ねえ、ガスパー様。いい加減にこっちを向いてよ」


 背後から可愛らしい少女の声がする。けれど、その要求に応える気にはとてもなれない。

 原因は、背後の少女、アウリエッタの服装にあった。窓辺に立って厚手のレースにくるまりながら、ガスパーは上擦った声で答えた。


「なぁ、アリー? なっ、何で……君は水着なのかな?」

「それはもちろん、あなたを誘惑するために決まってるじゃないの」


 そう。今のアウリエッタは、それは際どい格好をしていた。例によって分かるのは、上下ともに限りなく小さい布地であるということである。ガスパーの脳はこの視覚的刺激を処理しきれず、軽い凍結状態に陥っている。


「なっ、何のために?」

「あなたとの既成事実を作って結婚に持ち込むためよ」

「ひえーーーっ! だっ、誰かーー!」


 さらにカーテンをきつく顔に巻き付けるガスパー。何が何でも目に入れないという意思表示である。

 走り寄ってきた少女の手が、カーテンを掴んで思い切り引いた。ガスパーの手にも力が籠る。


「ちょっと、観念しなさい。これじゃあどっちが女か分からないじゃないの」

「勘弁してくださいー!」

「勘弁じゃなくて、観念しなさいってばー!」

「だからー、勘弁してくださいってばー!」


 そうして互いに引き合うことしばし。不意に、健康的な少女の手がカーテンの中へと滑り込んできた。

 図らずも、二人の手が一瞬触れ合う。激しく動揺したガスパーは、自らを守るベールを手放してしまっていた。

 顔の周りの布地がするするとほどけて、少女の顔がはっきりと見えた。してやったり。アウリエッタはそんな顔をしている。


「あっ……!」


 幸いなことに、二人には大きな身長差があった。ガスパーが慌てて天井を仰いだことで、襲い来る妖艶ようえんわなをどうにか掻い潜ることができた。


「ふふん」

「あわ……! ちょっ、ちょっと待ってー!」


 しかし、少女の攻めは緩むどころか、むしろ激しさを増すばかり。胸を押され腕を引かれ、とうとうバランスを崩して尻もちをついてしまった。

 慌てて目を閉じるが、はっきりと見てしまう。若さ溢れる少女の肢体を。

 女性らしさとたくましさを兼ね備えた肉体が、手を伸ばせば触れる距離にある。ガスパーの鼓動は意図せず乱れた。

 今の恋人と結ばれるまでは女に縁のなかった男が、この異常な状況に正気を保てるはずもない。ついに理性が決壊し、そして。


「ガスパー様? いいわよ。私はいつでも」

「こんなアリーなんて……。もう嫌いだー!」

「え……!?」


 思いもかけない言葉を口走っていた。





「うんと……ごめんよ。でもやっぱり、さっきみたいなのはよくないっていうか……」

「分かった! 分かったから、もうその話はしないで」


 たっぷりと泣きじゃくったアウリエッタを宥めに宥めて、二人はようやく向かい合ってテーブルについていた。

 アウリエッタは外歩き用に持ち歩いていた上着を羽織って、前のボタンをぴったりと閉じていた。

 上着のゆったりした両袖に重ねた両手を差し込みながら、傷心の少女が涙で濡れた声で切り出す。


「ねぇ。私のどこがダメなの?」

「前にも言ったけど、俺には心に決めた人がいるんだ。あの子以外は考えられないんだよ」

「私はレニス城の近衛兵団団長の家系の生まれよ。私と契りを結べば、お金に困らない生活ができるわ。庶民じゃ絶対に手の届かないいい生活ができるわよ」


 身を乗り出し、上目使いで見上げてくる少女。頭の後ろで腕を組んだまま、ガスパーはこともなげに言い返した。


「俺、そんなの別にいらないしー」

「お金がほしいって思ったことないの?」

「そりゃああるよ。でも」


 続けようとするガスパーを手で制し、アウリエッタは一度手を打ち合わせた。ぱん、と小さな音が室内に木霊する。


「分かったわ。だったら、こうしましょう。私が正妻になって、そのナナハネって子を愛人に迎えれば……」

「君って16歳だよね? 何でそんな恐ろしいことが平気で言えるんだよー」

「貴族階級ってそういうものだもの。重婚はダメだけど、夜伽の相手として訳ありの娘を手籠めにしてる殿方はいっぱいいるのよ。うちのパパだってそうだし」


 10代半ばの少女から壮絶な裏事情が飛び出し、ガスパーはただただ面食らった。家族と言えば、農村の閉鎖的な人間関係しか知らない彼には、その話はあまりにも現実離れしていて、しかし、目の前の少女はさして気負うでもなくそれが事実であると言う。

 理解したくないことには深入りしないことにして、一言だけ呟いた。


「なんか、ヘビーだなぁ」

「どう? くる気になった?」

「いーやー、むしろ余計行きたくなくなったっていうか」

「ねぇ」


 がたん、と大きな音。椅子を蹴り立てて、少女が立ち上がっていた。

 テーブルに両手をつき、目いっぱい身を乗り出して、見下ろしてくる。何事かと驚くガスパーの前で、若草色の頭が勢いよく下ろされた。


「お願い。結婚して!」


 呆気あっけに取られるガスパーの言葉を待たず、少女は矢継ぎ早に言葉を連ねる。


「あなたが好きなの。好きになっちゃったの。私をかわいそうな女にしないでよ。ここであなたを篭絡ろうらくできなかったら、私は無用の女の烙印を押されて世間からつまはじきにされるのよ。私の人生を台無しにしないで」


 ガスパーは、あえて返事をしなかった。答えを求める声に急かされても、潤んだ瞳に見つめられても、彼の口が言葉を紡ぎ出すことはなかった。

 とうとう少女がすとんと椅子に脱力してから、彼はようやく口を開いた。


「アリー。そういう言い方は、なんていうか、よくないと思うな」

「何で……?」


 冗談めかした言葉の中に確かな非難の気配がある。


「アリーが俺のことを好きだって言ってくれたのは嬉しいよ。でも、そういう、自分じゃない人を悪者にして気を惹こうとするの、俺は好きじゃないな」

「悪者? 私がいつ……!」


 再び身を乗り出し、むっとした表情で反論するアウリエッタに、ガスパーはゆっくりと、言い聞かせるように語った。


「君をかわいそうだって決めるのは誰だ? もし誰かが君をダメな奴だって指差したとしても、そういう人たちばっかじゃないだろ? 君のことちゃんと見て、認めて、応援してくれる人も絶対いるだろ?」


 目頭を押さえて、少女が言い返す。


「そんなの……いるわけない……。私たちは……レニスの人間は、歯車みたいに動かなきゃいけないの。家紋を汚さないために。社会の輪から追い出されないために。女王陛下のために。ガスパー様には分からない!」


 実際、彼にはアウリエッタの主張は理解できなかった。より正確に言うなら、彼女がここまで必死になる必要性を、台詞の内容から感じ取ることができなかった。


「そっか。そんなに大事なんだ、女王様って。ごめん、俺には分かんないからさ」


 心に浮かんだ謝罪をそのまま口にすれば、少女は口を噤んだまま虚空を見つめていた。ガスパーは、頭の中で必死に言葉を選んだ。


「アリーはさ、与えられた役割がある、みたいなこと言ってたけどさ。ほんとにアリーじゃないとダメなことってないと思うんだよ」

「私は役立たずだって言いたいの?」

「違う違う。俺が言いたいのはさ。役割とかー、歯車とか、あんまし深く考えなくたっていいんじゃない? ってこと。アリーが一番やりたいことは何か。それを考えるようにしたらいいと思うなぁ。なんてさ」


 「まあ、叶うか叶わないかは別問題なんだけど」と付け足して、彼は豪快に笑い声を上げた。アウリエッタは、呆けたようにその様子を眺めていた。


 俄かに、少女が相貌を崩した。先ほどまでとは打って変わり、意地の悪い笑みがきらりと輝く。


「今一番私がやりたいことはね。あなたと結婚することよ」

「だからー、それは無理なんだってばー!」

「私のやりたいことをやっていいんでしょう?」

「叶うかどうかは別問題だって言ったじゃんかー!」

「無責任よ!」

「うええっ!?」


 軽い言葉を投げ合いながら、二人は声を立てて笑った。緩やかな空気の中で、男と少女の不毛な言い争いはしばらくの間続いた。

 つかの間、流れる和やかな空気。しかし、その裏では、運命を決する時が着実に近づいているのだった。

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