18 二人の追想

 ◆15



「静かな夜だな」

「はい」


 丈夫な植物のつるで編まれた椅子に、羽毛でできた薄いクッションを敷いて、ユーレニア・レーヴェンスはくつろいでいた。傍らに控える従者に長い髪の手入れをさせながら、感慨深げに呟く。

 彼女は、自室から眺める夜景を好んでいた。硝子張りの窓から眼下に広がる街並みに思いを馳せる。豆粒のような街灯の一つ一つに自国の民の暮らしがあると思うと、彼等を庇護し導いてやらねばという心持になるのである。

 しかし、それだけではない。

 彼女の目が北の方角へと滑り、遠く霞む森のさらに向こうを睨み据えた。あでやかな相貌に先ほどまでの安らぎはなく、そこにはただ憎悪だけが残されていた。


「ベルベリアなぞにこの国を渡してなるものか。我が国の民の平穏は、何があろうと死守するのだ」


 その時、等間隔な電子音が彼女の後方で鳴り響いた。長い髪に香油を塗り込んでいた従者が、素早く身をひるがえし、通信端末ミミアを手に戻ってくる。

 ディスプレイを女王に向け、彼女が首肯するのを確かめてから、主の耳に機会を宛がった。


「女王陛下。ご報告が」


 届いたのは、若い男の機械的な声であった。囁くような低音で応じる。


「簡潔にせよ」

「仲間の確保に勇者が動いているようです。泳がせておいた賊が奴等に捕えられました。館長は無事です」


 女王は露骨に鼻を鳴らした。


「流れ者の命なぞどうでもよいが。して、策は?」

「ご安心を。次の手を打っておきました」

「さすがは我が腹心。宮廷魔法師長をも凌ぐ周到さよな」

「は。恐悦至極に存じます」


 長いドレスの下で足を組み替えながら、女王は厳しい口調で問うた。窓に向いた視線は眼下の景色に注がれている。


「手頃な獲物は見つかったのか? 分かっておろうが、この国の者に手を出すことは断じて許さんぞ」

「はい、もちろんでございます。陛下のお眼鏡に適う人間を選び抜きましたよ。ベルベリアに済む底辺の人間に、ちょうどいいのがおりまして」


 時折台詞に酷薄さを織り交ぜながら、男は言った。一枚の画面を隔てて、二人の男女は冷ややかな笑いを交わし合う。


「そちらの進捗は?」

「何の問題もございません。娘たちもしっかりと役目を弁えているようで、成果の方も、続々と」

「そうか。期待しておるぞ、ダルフ。お前だけが頼りだ」



*



 二人が消息を絶ってから、3回目の夜が訪れていた。

 もはや定例となった残業を終わらせ、スカーレットが社長室に戻ると、秘書のセレンが灯りの下で熱心に書類の整理をしているところであった。


「おかえり」

「ただいま」

「紅茶を淹れようか。そろそろ終わりにしようと思っていたんだ」

「ありがとう」


 セレンは、すぐに湯気を立てるカップを二つ手にして戻ってきた。スカーレットには甘いミルクティーを、自分にはブラックコーヒーを。

 どちらからともなく、カップを口元へ寄せた。すぐに二つ分の溜息が聞こえる。


「結局、今日も見つからなかったんだね」

「ええ。一日ありがとう。本当に」

「こっちのことは気にするなよ。成果のない捜索は心身を疲弊させるからね。君も早く休むといい」


 セレンの気遣いには返事をせずに、スカーレットは話題を転じた。いつもの微笑の隙間から、等身大の言葉が零れる。


「ねえ、セレン。私が後悔してるって言ったら、笑う?」

「笑わないよ。珍しいなとは思うけどね」

「レンリとガスパーくんがちゃんと帰ってきてくれるって、そう信じたかったわ。だけど、分かっちゃったの。あの日、公園で起きたこと。なんとなくだけど」


 言葉を切った彼女は、カップの中身を一息に流し込んだ。乾ききった喉を潤すように。沈みかけた気分を変えるように。

 どこか冷静で、どこか他人事の響きを持った台詞が続いた。


「レンリ、マーシュあの子に相当な恨みを持ってたみたいなのよ。次に会ったら絶対に逃がさないって、チーナちゃんと一緒に向きになっちゃって。だから、止められなかったと思うの」


 手振りも交えて雄弁に語る。

 向かいに座るセレンの目は、彼女の感情の傾きを十二分に捉えていた。即ち、握り締めた手、下がった口角、落ちた視線、大きく揺れる瞳、その全てを。


「たぶん、同じ頃、私たちもカロンさんに会った。偶然なわけがないじゃない。このまま終わるわけがないじゃない……」


 ぱたり、と。同時に両目から溢れた雫が、重なり合った手の上に落ちた。呼吸が乱れて、彼女の言葉を阻害する。


「私が……うかつだったの……。目を、つけられてるのは……私だけだと思ってた……。彼等が、こんなに早く、事を起こしてくるなんて……。もっと……用心するように、言っておくべきだった……。ナナハネちゃんにも……ガスパーくんにも……」


 セレンは音を立てずに立ち上がると、スカーレットの背後に周り、震える細い肩をごく控えめに抱いた。本来その役目を負うべき男が、今はいない。

 彼女の力になりたいという思いは、彼の胸の内にも長らく存在するものだ。多くの時間を近くで過ごしてきた者として。少なからず、彼女を愛する者として。


 一度均衡を失った感情はそう感嘆には戻らないようだった。スカーレットが口をきけるようになるまでには、いくらかの時間を要した。


「うーん……。ああ、あなたしかいないと、気が抜けちゃっていけないわ。こんなの私じゃない。あなたもそう思うでしょ?」


 頭の後ろに投げ出した両手を目いっぱいに伸ばしながら、スカーレットは相貌を崩した。長い足をばたつかせて歯噛みする様子は少女のようで、勇者や社長の肩書を持つ才女には見えない。

 生真面目な秘書は、心の内にくすぶる感情から目を反らし、いつもの薄い表情で軽口を返した。


「他の社員には黙っておいてあげよう」

「社長の座は譲らないわよ」

「これ以上の出世は望んでいないので、ご心配なく。楽ではないよね、勇者のビジネスパートナーというのは」

「あら、その分給与は弾んでるでしょ?」

「おっと。赤字になった時に真っ先に減額しておいて、どの口が言うんだかな」

「ふふっ」


 スカーレットの顔に小さな笑みが咲く。再び向かいに座したセレンの前には、もう涙の面影は残っていなかった。揺るぎのない強い意思がそこにはある。


「ずっと思っていたんだけど、セレン。あなたって、時々兄さんみたいな顔をするわよね」

「何を言い出すかと思えば。俺が青き勇者だなんて、恐れ多いよ」

「そうでもないわよ。最後に会ったのなんて450年も前のことだから、どんな人かまでは全然覚えていないんだけど。あなたみたいな感じなんじゃないかしらって、時々思うの。今だって、多くは語らないで話を聞いてくれたわ」


 セレンは、すっかり冷めたブラックコーヒーを飲みながら話を聞いていた。薄墨色の瞳には、幾許いくばくかの寂寥せきりょうが住んでいる。


「おかしなものだよ。君に出会った時は俺の方が年下だったのに。いつの間にか追い付いて、あっという間に追い抜いて、こんなにも差が開いてしまった。俺はおじさんになったのに、君はいつまでも若いままだ」

「それはまあ、半分は竜ですから」


 こともなげに言って、くすりと笑うスカーレット。かと思えば、不意に真剣な表情になって、言うのだ。


「だけど、仲間を失って抜け殻になってた私に、人間らしい生活を取り戻してくれたのはあなただったから。散々迷惑をかけているのに、ずっと付き合ってくれるのもね」

「時には投げ出したくもなったさ」

「そうなの? それは初耳だわ」

「けど、どうにか忍耐でやってこられたよ」

「私って、そんなにみんなを困らせているのかしら?」

「付き合いきれないと言って辞めていった社員も大勢いたな」

「だけど、ついてきてくれる子たちもいるわ。あなたや、ナナハネちゃんや、ガスパーくんや……レンリみたいに」


 見つめ合い、薄い笑いを交わし合う。

 確かに、彼女の元から離れていった者も数多い。奔放が過ぎる振る舞いに、うんざりすることも決して少なくはない。セレンとて、本気で会社を去ることを考えた時期もあったのだ。

 それでも、結局彼女の傍を離れずにいる辺り、何だかんだと放っておけずにいるのだ。完全で不完全な白き勇者を。強さと危うさを併せ持つ女社長を。



*



 扉の上部の小窓から光が漏れていることを確認して、スカーレットはリズミカルに扉を叩いた。すぐに物音がして、寝巻姿のナナハネが顔を出す。

 訪問者の正体を確認するや、申し訳なさそうに視線を下げた。


「あの、私、眠れなくって……え? あっ、あの社長?」


 ナナハネの肩をぐいぐい押して、無遠慮に室内に身体をねじ込む。戸惑う部屋主の目前で左手の中の物を掲げて見せると、茶目っ気たっぷりのトーンでスカーレットは言った。


「じゃーん! さあさあ、ナナハネちゃん、ベッドに入って。お姉さんがおまじないを掛けにきてあげたわよ」


 彼女の左手の先に漆黒の杖を見て、ナナハネは小さく声を上げた。スカーレットのもう一つの武器。闇の杖、サイレントダンサーだ。


「って、魔法で寝かせる気満々じゃないですかー」

「効果は保証するわよ。私も寝坊するところだったもの」

「加減はお願いしますね」


 そう言ってはにかむと、彼女はスカーレットをベッド脇の椅子へと招いた。素直に好意に甘えることにしたらしい。

 それじゃあ、と、杖を持ち上げるスカーレットに、ベッドの中からナナハネが話しかけた。


「ねえ、スカーレット社長。あの時、カロンさんに何をされたんですか?」

「見たままだけど」

「キス……されただけ?」

「そうね」


 あくまでも淡々と、スカーレットは応える。変わらぬ穏やかな口調で。

 傍らで見ていたナナハネには分かっていた。カロンの行いには、別の意図があったことを。スカーレットが真実を語らないであろうことも。


「ねえ、ナナハネちゃん。カロンさんには絶対に近づかないで。彼に会ったら、何を言われても必ず逃げるのよ」

「何で?」

「危険だから」

「危険って?」

「あなたを失いたくないということよ」


 スカーレットはそう言って強引に話を打ち切った。ナナハネはそれ以上の追求を諦めて、承服しょうふくの意を示す。


「分かりました。全部私には言えないことなんですね」

「ごめんね、ナナハネちゃん。今はまだ言えないわ。時がきたら、必ず話すから」


 知らず、ナナハネは唇を噛んでいた。悔しさに歪む顔が、引き上げられた掛け布団に隠される。くぐもった声が聞こえた。


「私、社長と一緒に魔竜《フェイデル》を倒しましたよね? レンリさんだけじゃない。私やガスパーがいること、忘れてませんよね?」

 しばらくの間、返答はなかった。

 困らせるようなことを言っただろうか。ナナハネはそんな心配をしたに違いない。掛け布団を下げてスカーレットを見上げた。


「ナナハネちゃん。私はね、レンリやガスパーくんとの縁は、あなたが繋いでくれた物だと思ってるわ」


 唐突に、スカーレットは言った。行儀よく揃えたももの上に漆黒の杖を置いて、遠くを見るような柔らかな目つきをする。


「え……? 私が?」

「ほら、レンリって、最初はとてもかたくなだったじゃない。繊細で、塞ぎ込んでて、私のこと、なかなか受け入れてくれなくて」

「公言してましたもんね。スカーレット社長のこと、嫌いだって。それが、今じゃ社長にぞっこんですもんねぇ?」


 ナナハネの言葉に揶揄からかうような調子が混じる。その口調をそのまま引き取って、スカーレットは笑った。


「正直に言っちゃうとね、嫌われたままでも、魔竜討伐には支障ないと思ってたんだけどね」

「えっ!?」

「今なら分かるの。私が魔竜彼女の力を失った今でもこうして生きていられるのは、ナナハネちゃんが私たちの心を通わせてくれたからなのよ」

「そう……かな。社長が言うならそうなのかな」


 布団の中に半ば顔を埋めて、ナナハネは照れくさそうに目を細めた。


「さあ、おやすみなさい。レンリたちがいない分、明日も元気に働いてもらわなきゃいけないんだから」


 サイレントダンサーをナナハネの目前にかざして、スカーレットは微笑んだ。


「ちゃんと加減してくださいね。ただでさえ私、朝苦手なんだから」

「ディープ、安心して。明日は特製の氷で起こしてあげるわ」

「あ、あれだけは……許してくださいー……」


 溶けるような安らかな微笑みを残して、最愛の部下は穏やかな眠りの中へと旅立っていった。

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