16 庭園とキャンバスと魔法絵師

 ◆13



「はぁー……」


 気まぐれに線だけで描いた絵を一瞥して、レンリは長い息を吐き出した。

 上等な木箱の中に整列した筆たちは、自身が集めていた物に負けず劣らずの華やかさ。しかし、十全に揃った画材を目にしても、高い完成度で描かれたの線画に色を乗せていく気には、とてもなれないのだった。

 どうせ、初めから失敗すると分かっていることだ。


 胸の奥底に芽生えた不安の種は、たったの半日ほどで心の中を覆い尽くすほどの巨木へと成長を遂げた。

 会社はどうなっているのだろうか。ガスパーは何をされているのか。晩餐会の会場で出会った親切な男、ラグレクスは無事だろうか。立て続けに懸念事項が浮かんでは、汚泥のように重くのしかかってくる。

 そして、巡り巡る思考は、最後には必ず愛する者の元へと行きつくのだった。


 レンリは、シュリーネが留守の間に見張りを任されているらしい侍女に何かと用事を言いつけ、その隙に部屋の外を歩き回った。別の部屋の担当と思われる見知らぬ令嬢と鉢合わせた時は、寿命が縮む思いを味わいながら出来の悪い愛想笑いでどうにか切り抜けた。毒にも薬にもならない見てくれは、こんな状況でこそ役に立つ。


「女王陛下からの課題を描きたくて」


 この言葉が最も効果的だと目敏く気が付いたレンリは、以後懐疑を向けられる度に同じ言い訳で凌ぐことに決めた。

 実のところ、彼は課題の魔法絵を描く気がない。より適切な言い方をするのであれば、彼にはまだ魔法絵は描けない。

 しかし、それを犯人側に知らせるのは時期尚早だ。魔法絵を描かせる目的も不明なままで、レンリが課題を達せられないと分かった犯人がどんな悪辣あくらつな手段に出るかは未知数なのだ。

 今はとにかく許される限りの情報収集と時間稼ぎを。焦燥に駆られるままに、レンリは行動し続けた。


 神経をすり減らしながらの調査の甲斐あって、日の沈む頃には自分たちが捕われている場所について、ある程度知ることができた。

 まずは、レンリが軟禁されているこの建物は、彼の想像を軽々と超える広さの邸宅であること。レンリに宛がわれた部屋があるのは西側の棟であること。

 恐らくそのどこかに、途方に暮れる金髪の錬金師がいるはずだが、一つ一つ扉を叩いて確かめるわけにもいかないのだった。



 日が傾いて間もなく、シュリーネはやってきた。彼女の後方から侍女服を着た女が洒落しゃれた木目調のワゴンを押してくる。

 彼女がテーブルの上に二人分の食卓を用意する間、レンリは窓際に立って、外に広がる芸術作品を眺めていた。

 侍女が去り、シュリーネが腰を下ろす音を背後に聞いて、ようやく自身も彼女の向かい側に落ち着いた。視覚と嗅覚に食欲を刺激される。

 質の良い丸パンに二枚貝と野菜のチャウダー、魚のソテー、茹で野菜のサラダ、オレンジ。

 盛り付けは極めて無難なものだが、誘拐した人間に出す食事にしては贅が尽くされている。食費の出所はロダン・クライシーか、国家か。

 などと考えていると、シュリーネがおもむろにレンリのスープに手を伸ばした。器を手前に寄せると、自分のスプーンで中の液体を口に含んで見せる。


「ほら、問題ありませんわよ」

「それはどうも」


 彼女の様子を注意深く観察しながら、レンリは自分の食事に手を付けた。

 ここでは朝と昼に軽食が、夜にはしっかりとした食事が提供されるらしい。令嬢たちに言いつければ飲み物も用意される。

 食事の内容と言い、少々出歩いてもとがめられないことと言い、ずいぶんと甘い待遇である。尤も、通信手段も武器も持たない人間にできることなど高が知れているのだろうが。

 申告すればシャワー設備も使用できることになっており、同じ境遇の人間との接触を期待して毎日利用しているのだが、レンリの目論もくろみが叶うことは今のところないのだった。



「このあとは如何なさいましょう? 汗を流されますか?」


 食事を終え、侍女がテーブルを片付けて出て行くと、シュリーネは露骨な愛想笑いを貼り付けてこう切り出した。瞳は大きく開き、両肩も上がっている。

 彼女が緊張している理由には見当がついていた。大人の余裕を意識して、切り込む。


「その前に、お伺いしたいことがあるのですが」

「前にも申しましたけれど、質問ならお答えできませんわよ」

「シュリーネさん。あなたはなぜ、そんな格好をしているのですか?」


 女の肩が小さく震える。

 彼女が身に着けているのは、背中と胸元が大きく開いた赤いナイトドレスであった。一枚きりの薄い布地を豊かな胸部が窮屈そうに押し上げて、裾から覗く素足は出来の良い陶器のように細く滑らかだ。

 手を伸ばせば届く距離にある煽情的な光景に、レンリはずっと視線の所在に困っていた。


「それは……。あなたのような方が女性の服装にとやかく言わないでくださいまし!」


 むっつりと腕を組み、睨みつけてくる女。ずっと見ていることもできず、目線を彼女の手元に落とした。

 その手には一片のかげりもなく、新品の人形のようだ。レンリの知る女の手は、白いけれど固くて、傷だらけで、そして尊い。


「分かっているんですか? あなたのような若い女性がそんな格好で男と二人きりになるということが、何を意味しているのか。それを命じた人間が何を期待しているのか」

「分かってますわよ!」


 レンリは、自分の言葉が熱を帯びていくのを抑えられなかった。自身の中に生まれた感情に戸惑う。

 向かいの女は椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。テーブルが一度、叩かれる。

 浅い呼吸を繰り返して、シュリーネは続けた。自らの非力を嘆くような、救いを乞うような声音には、涙の気配が混ざり始めている。


「……そんなこと、分かっていますわよ。わたくしは、そのためにここに呼ばれたんですもの。わたくしには、そうするしかありませんの……」


 震える睫毛まつげの隙間から、透明な雫が零れ落ちる。無意識のうちに、言葉がレンリの口を突いた。


「こんなことが、なぜ許されるのか」


 彼は理解した。自身の中心を焦がすのは、いきどおりである。そして、目の前の女を解き放ちたいという願望である。


「シュリーネさん。実は、僕は魔法絵が描けないんです」

「なっ……!? い、今何と……」


 突然のレンリの告白に、シュリーネは涙の膜に覆われた瞳を見開いた。新たな涙の筋ができるのにも構わず、テーブルの上に身を乗り出す。

 レンリは自嘲を多分に含んだ表情で、続けた。


「描けないんですよ。魔法絵なんて。まだ完成させられたこともありません」

「そっ、そんなはずはありませんわ! だって、だって……! あなたは、勇者に選ばれるほどの優秀な治癒師で……。治癒魔法が誰よりも得意で……。絵の腕前だって、その辺の画家なんて相手にならないほどだと」


 誇張された評判に込み上げた気恥ずかしさは、すぐに別の感情に取って代わる。一言で表すなら、それは呆れであった。


「そんな情報だけで僕が魔法絵師だと? 本気ですか? 信じられない……」


 あまりに浅い考えに、知らず、こめかみを強く押さえていた。

 大掛かりな事を起こすにしては、いい加減にもほどがあるではないか。この調子では、バックに女王がついているという話も疑わしいものだ。

 脳内の混乱を落ち着かせるために、レンリは言葉を繋いだ。狼狽に揺れる深海色の瞳を見据え、多感な時期の生徒に教えるように、優しげな口調を深く意識する。


「いいですか? シュリーネさん。魔法絵という物は、絵が描けて魔法が使えれば、誰にでも描けるわけではないんですよ。乾くと色味が変わるので、色選びのセンスがとても重要です。あまり知られてはいないのですが、魔法絵は未完成のまま時間を置くと滲んで崩れてしまうので、完成までの速さが要求されます。一度描き始めたら半日はキャンバスから離れないぐらいの覚悟と根気がいるんです」

「そんなこと……」


 重い沈黙が降りてきて、二人の間に見えないカーテンを下ろした。テーブル一つ分の距離がやけに遠い。

 シュリーネはしばらくの間、立ったまま目を伏せ、黙考していた。室内には、何の音もない。

 気の長い方ではないレンリの心には、後悔の念が渦を巻き始める。

 勝負に出たのは失敗だったのだろうか。彼女に打ち明けるべきではなかったのでは。彼女等の期待に応えられないと判断されれば、自分はどんな扱いを受けることになるのか。

 不安に苛まれ始めた彼を、女の声が引き戻した。


「やっぱり、困りますわ。描いていただかなくては困るんです!」


 血の気を失くした顔で声を上げると、シュリーネは部屋を飛び出していった。


「シュリーネさん」


 彼女を呼ぶレンリの前で、扉が音を立てて閉まる。

 胸の内に渦巻く臆病風を振り払うように、レンリは深く息を吸い込んだ。少しだけ心が凪いで、行くべき道を見た心地がした。


「これで、もう後戻りはできませんね」



*



 初めて降り立った庭園の風景は、青い闇に塗り潰されて寂寂せきせきとしていた。夜半の空に目立つ雲の姿はなく、ちりばめられた星と痩せ細った月だけが、僅かな光を緑の上に下ろしている。

 隣の棟まで歩いてみようと考えていたレンリであったが、その野望はすぐに潰えることとなった。

 庭園はおろか、屋内にも常夜灯が一つも灯っていなかったのは想定外であった。視界のままならない中をがむしゃらに動き回れば、客室棟に戻ってこられなくなることも考えられる。

 とは言え、このまま引き返すのはせない。度重なる葛藤を経て再び庭園に向き直った、その瞬間。視界の奥に、ちらりと確かな灯りが見えた。


「ん……?」


 庭園の中央と思しき場所に、4つの灯りが集まっている。目を凝らして見れば、それはよくあるハンドライトで、全て低い位置に吊るされているようであった。

 扉の傍にさえ常夜灯を置かない屋敷が、庭園の中に光源を設置していることに、レンリは当然の興味を抱いた。足音を立てないよう、一歩、また一歩と近づいていく。

 そうして、半分ほどの距離まで詰めた時、彼の疑念は確信へと変わった。


「……っ!?」


 人がいる。

 光源の中心に水の満たされていない行けのような物があり、そのへりに座して、一心不乱に手元を見つめている。

 さらに、距離を詰める。白い光に照らされた様相を見て、レンリは今度こそ声を上げた。


「あっ、あなたは……?」


 低木の枝から吊るされた4つの光。その中心にいたのは、男だった。伸びた白髪が光に照り映えて輝いている。

 彼が見ているのは、一枚の絵。その手に握られている筆を見れば、彼が何をしていたのかは歴然としている。


「魔法絵を描いているんですか? どうして、こんな時間に、こんな場所で?」


 レンリの問いかけに、彼は答えない。それどころか、突然話しかけられたというのに一瞥をくれることも、身を強張らせることもない。あたかも訪問者に気が付いていないという態度であった。


「あのう、すみません」


 再度、話しかける。反応はない。


「すみません。お伺いしたいのですが」


 さらに、もう一度。しかし、状況が動くことはなかった。


「はぁ……もういいです。勝手に見させていただきますので」


 少々近付いて無遠慮に手元を覗き込んでも、彼の動きは乱れない。

 ふと、自分は幻を見ているのではないかという錯覚に襲われた。目の前にいるのは人間ではなく、魂や亡霊の類なのではないか。

 そう勘ぐってしまうと確かめずにいることはできない。レンリは、手を伸ばしてそっと男の肩に触れてみた。

 無難な結果が返ってくる。指先からは、生身の感覚と確かな温かみが伝わってきたのだ。この男は、間違いなく生きている。

 男の筆から雫が落ちる。頭上に広がる物と同じ、宵の空の紫色。

 キャンバスに映る姿には、見覚えがあった。今より遥か480年前、仲間たちとともに魔竜を封印し、世界を救ったと語り伝えられる青き勇者。


「ランディ・コート……」

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