14 驟雨の中で

 ◆14



 篠突しのつく雨の降り頻る街路を、スカーレットは走っていた。

 予想外の急な豪雨に、大抵の者は屋根や物陰に隠れて雨雲の撤退を待っている。雨天時の装いもなく通りを駆けているのは彼女ぐらいのものだった。


「こんな! 雨に! なるなんて! 聞いてませんよー!」


 スカーレットの渾身の叫びが、猛烈な雨音の中に空しく溶けゆく。軒先で雨を凌ぐ者たちは、激しい雨粒に打たれながら大通りを駆け抜けていくスーツ姿の女に、好奇や心配の眼差しを向けていた。

 彼女が雨の中を急ぐのには、当然理由がある。スケジューリングのミスにより、経営陣で行う社内会議の開始時刻を超過しているのだ。

 昨日充電を怠っていた通信端末ミミアはバッテリー切れ、社員に連絡をしたくともその手段がない。

 雨は時として感覚を奪い、判断を鈍らせる。それは、まさしく彼女の不運であった。



 先触れなどなかった。

 しかし、何かに引き戻されでもしたように、突如彼女の両足が前進運動をやめた。


「えっ?」


 理解の追い付いていないスカーレットの鼻先を、銀の烈風が横切った。左肩と右足に刺し込まれるような激痛が走り、耐魔服を身に着けるのを忘れていたことを思い知らされる。


「……っ!!」


 複数の人影が行く手を遮っていた。

 五感を研ぎ澄ませれば、背後の物陰に紛れた気配がいくつか見える。前方の連中との距離を取ろうと後退すれば、背後からの魔法の猛攻で即敗北決定という筋書きのようだ。


「ティアベール!」


 スカーレットの左手でフォースラビリンスが輝くと、彼女の周囲に透き通った光のカーテンが顕現した。暗澹あんたんたる豪雨の空の下に、その光の異質さが際立つ。

 しとどに流れ落ちる雨粒を煩わしげにスーツの袖で拭いながら、スカーレットは襲撃者たちを順繰りに見回した。

 長いコートを羽織った者が半分、彼女と同様に濡れネズミとなっている者が半分。年齢も服装もばらばらで、ほとんどが耐魔服すら身に着けていない有様。

 彼女の出方を伺っているのか、誰一人動こうとしない。かと言って、攻撃をやめる意思があるわけでもないようだ。


 両者の間の空気は張り詰めたまま、たっぷりと数十秒間の時が流れた。

 拭っても拭っても水滴が顔を流れ、目に入り、鬱陶しさも一入。やがて、結界の中から声が上がった。


「お足元の悪い中、待ち伏せご苦労様でーす!」


 普段であればよく通る彼女の声も、激しい雨音の中では届いているかすらも怪しい。


「あのう! この雨の中では、皆様も、満足にお力が振るえないでしょうし! 今日のところは、出直していただけないでしょうかー!?」

「遊んであげるよ!」


 四方からさざなみが押し寄せるように、複数の声がスカーレットに向けて放たれた。

 寸分違わぬ旋律に乗せた、全く同じ内容の台詞。声を合わせていると言うよりも、あたかも一人の人間の口から発せられているようであった。


「ディストル!」


 前方の一人が杖を振り翳すと、スカーレットを守っていた結界は雷光によって貫かれた。

 薄布が破れて舞い落ちるように、光の結界が揺らめく残滓を漂わせながらはらはらと崩れ落ちた。

 それが開戦の合図となる。



「エアル!」

「ハイドロ!」

「アイシス!」

「イグニス!」

「エクリス!」

「アルバス!」

「レイガ!」


 全く同じタイミングでの詠唱。7種類の雑多な属性が、それぞれに刃や砲弾の形を成して目標へと迫る。

 全ては中級魔法。例え一撃でも、場所さえ選べば人の命も容易に奪うことができる。

 コンマ一秒遅れで、スカーレットが動いた。

 頭部に迫る雷撃、喉元に直進する風の刃、脇を狙う火炎球、足元に向かってくる水球、そして、高等部に飛んでくる土塊、背後からの風刃、氷塊、光弾。大きな氷塊を無数に発生させ、迫る魔法を全て正確に打ち砕いた。


「グラント・アイシス!」


「アルバス!」

「エアル!」

「レイガ!」

「エクリス!」


 軌道を変えて、再び放たれる複数の中級魔法。恐るべき集中力で、次の魔法の一団も一つ残らず粉砕する。

 同様の流れがさらに一回、ダメ押しにもう一回。

 しかし、スカーレットの集中力が途切れることはなく、彼女がその場を動くこともなかった。


「その余裕! いつまで続くかな!?」

「それはこちらの台詞ね!」


 ぴったりと重なった長髪の言葉に、挑戦的な笑みで応じる。

 魔法を連続で打ち続けた人間と、無数の攻撃の軌道を読み、全てに魔法を当て続けた人間。どちらがより魔力を消費しているかなど、論ずるまでもない。

 あまつさえ、女一人に対し、敵は8人。さらに、あらゆる五感を制限される豪雨の中。このまま戦闘が続けば、包囲された女が膝をつくまでにそう時間はかかるまい。

 誰もがそう思うはずだ。彼女の肩書を知らなければ。



「魔力切れかな!?」

「まさか!」


 そうかと言って、スカーレットは自身の身を守るばかりで、自ら攻撃を仕掛けようとはしていない。

 防ぐことで精一杯なのか。否。

 時間稼ぎをしているのか。否。



 果たして、襲撃者たちが再度杖を構えた。と同時に、あれほど猛威を振るっていた雨が、一瞬にしてぴたりと止んだ。

 暗雲犇めく蒼空を、一筋の光が切り開いていく。


「見つけたわよ!」


 と、サファイアの瞳が見開かれ、そこに鋭利な刃が煌めいた。


「レイガント!」


 頭上に掲げられただけの、目標を持たぬ杖。そこから飛び出した魔法は、物理法則を無視して複雑な軌道を描き、視界外の的を正確無比に捉えた。

 獰猛さすら宿した鮮烈な白が、確かにそこにあった生命を丸ごと飲み込んだ。すると、まるで魂でも抜かれたかのように、杖を振り翳していた者たちが一斉に地へと倒れ伏したではないか。


「手ごたえがない?」


 横たわる襲撃者たちを大股で踏み越え、スカーレットは冷静に歩を進める。重なり合った家屋のその臆へ。規則的な靴音が、足元の水溜りに大きな波紋を残していく。

 視界の先には、何者の存在も容認されない白の世界。スカーレットがその中に捕らわれている者の気配を探ろうとした時、不意に全身を何かが駆け抜けた。

 長きに渡り戦いに晒されてきた身体は、思考する暇もなく忠実にその主を死の危機から守る。彼女が僅かに一歩踏み出したその横を、煌めく銀線が通り過ぎた。


「……」


 白の牢獄に亀裂が入り、中から人影がゆらりと現れる。雨を弾く黒いコートの、フードの下にあった幼い顔に、スカーレットは見覚えがあった。


「あら、あなたは」


 しかし、それ以上の発言は許されなかった。その人影が杖を振り翳していたのだ。


「ディープ!」


 聞き慣れない魔法名が飛び出す。が、スカーレットには分かっていた。まやかしの安寧が、対象者を深き睡眠へといざなう中級補助魔法。

 ところが、彼女は避ける素振りすら見せず、それどころか、襲撃者の前へと歩を進めたではないか。魔法の直撃を受けてもなお見下ろしてくる女に、襲撃者の少年は知らず驚愕の表情を見せていた。


「残念だけど、私にそれは効かないわ。あなたの目的は何? どうやって彼等を操っていたの?」


 間合いを詰めるスカーレット。しかし、答えを聞くことは叶わなかった。

 左半身に鈍い衝撃が加わり、彼女は俄かに体勢を崩した。


「えっ!?」


 目前の襲撃者に気を取られるあまり、背後に忍び寄る気配を見逃していた。倒れそうになったところを、重心を左にずらすことでどうにか持ちこたえる。

 男の手が杖を奪おうと延びるのを、身を屈めてやり過ごすと、スカーレットは屈んだままの体勢で杖を振るった。


「トリプル・アイシス!」


 3つの氷塊が獲物に向かい直進する。左の男、背後に迫っていた敵、それぞれの顔面へ。二人の襲撃者は声もなく倒れ、起き上がることはなかった。

 しかし、最後の一撃を当てることはできなかった。


「勇者の力、見せてもらったよ!」


 降ってきたのは、少年のようにも少女のようにも聞こえる、あどけなくしなやかな声であった。自然と見上げれば、目前の民家の屋根に幼き襲撃者の姿がある。


「ねえ、待って!」

「今回のはほんの挨拶替わりだよ。次会った時は、そのご自慢の髪の毛を全部引き抜いて、綺麗なお顔をずたずたにしてから殺してあげるから、覚えておいてね」


 襲撃者は小さく手を振ると、屋根伝いに反対の通りへと飛び降りて行った。

 あとには、微動だにしない8人の男女と、呆然と民家を見つめる長身の女が取り残された。


「これって……?」


 スカーレットは、手袋を着けた手で、襲撃者の残していった物を拾い上げた。それは、この時代には武器として使われることのなくなった鋭利なナイフであった。


「どうして……」


 しばらくナイフを眺めていた女が、無造作にそれを高く放り投げる。


 日頃から微笑を絶やさないはずのブルー愛に、確かな陰りが差した。瞬間、深く息を吸ったスカーレットは、出せる限りの声を空へと放った。

 その言葉に含まれていたのは悲しみだったのか、憤りだったのか。彼女の声は、雨上がりの滲んだ街に空虚な余韻を残していた。



「バッカヤローーーーー!!」

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