13 昼下がりの廃病棟
◆13
「ミゼルさんですか?」
魔法書店は、久々に多くの客で賑わっていた。従業員たちが、入れ替わり立ち替わり店内を駆けずり回っている。マーシュだけは、午前中の勤務を終えて帰宅した後であった。
「お客さんのことをこんな風に言うのはよくないって分かってるんですけど。ミゼルさんは、その……ちょっと怖い人でしたね」
カウンターの奥にある従業員用の部屋で、ミゼル・キャスターについての聞き込みが行われている。相も変わらず、真っ先に質問に返答するのは店主の妻であるリナリーだった。
「怖い、というのは?」
「試し読みスペースでよく魔法の専門書を読んでるんです。本を読みながらぶつぶつ喋ったり、急に笑い出したり手を叩いたりするから、私、なんか怖くって。何かに憑りつかれてるのかと思ったぐらいで。あっ、私ってばお客さんに対して」
「例えば、どんな本を読んでいましたか?」
「最近は、怪しい本が多くって。そうだ、ちょっと待っててくださいね。覚えてる範囲で持ってきます」
言うが速いか、リナリーは喜々として本棚の方へ走って行った。
幾許もしないうち、数冊の本を胸に抱えて戻ってくると、荒くなった呼吸を整えながらテーブルに並べていった。
『闇属性の真実』。『忘れられた闇魔法』。『精神汚染の可能性を探る』。『悪魔の全て』。
ほとんどが10年以上前に書かれた物で、表紙は一様に暗く、鬱々とした風情を醸し出している。
「全部訳ありの本です。出版を巡って血が流れたとか、誰も触ってないのに落ちてきたとか、勝手にページが捲れたとか、本の中から人の声がしたとか、そんな噂が絶えないんですよ。よかったら読んでみます?」
「いえ。今は結構です」
「わ、私も」
レンリが目を反らし、ナナハネが慌てて首を振る。見ているだけで気分が悪くなってくるから末恐ろしい。
「こんな本ばかり読んでいたら、数分で頭がおかしくなりそうです。いや、もうとっくにおかしいんですかね」
「でも、まだミゼルさんが悪い人だって決まったわけじゃありませんよ。ただ悪魔とかそういうのが好きなだけかも」
「もしかして、ミゼルさんが犯人なんですか?」
「誰もそうは言っていませんよ。犯人が分かったら必ずお伝えしますから、そんなに急かさないでください!」
思わず声を荒げるレンリに、リナリーとナナハネが揃って肩を震わせた。すぐさま我に帰り、謝罪しようとしたレンリの神経を、媚びるような高い声が逆撫でする。
「ごっ、ごめんなさい! そうですよね。ゆっくり考えたいですよね。ほんとにごめんなさい!」
「ミゼルさんは、事件当日も来店していましたね。どんな様子だったか、覚えていませんか?」
騒ぐ女を意図的に無視して、壁際に立って書類を読むふりをしているロアに視線を投げた。
とたんに、彼は持っていた紙束を床にばら撒いた。リナリーが批難の声を上げながら、透かさず書類を拾い集める。
「さ、さあ。知りませんね」
見るからに動揺している。
今日こそは、この夫婦の実態を暴く。レンリが心中で決心を固めた時、予想外の方角から声が飛んできた。
「そう言えば」
カウンターの方からのそりと人影が現れた。店員のジン・モビーズだ。
「あの日ではないが、あの客、店長に変なことを話してなかったか? 悪魔を呼び出すのに成功したとか、そういうことを」
「そ、そう言えば、そんなことを言っていました。はい、確かに言っていました」
瞼を緊張で震わせながら、ロアががくがくと頷いた。まるで、同じ動きを繰り返す仕掛け人形のようだ。レンリの観察眼は、この時の彼の内なる変化を見逃さなかった。
「それは気になりますね。もしその話が事実だとしたら、僕等はミゼルさんを自警団に連行しなくてはならなくなってしまいます」
「悪魔って、悪魔族の脅威のことですよね? 呼び出すなんて、そんなことできるんですか?」
「まあ、普通に考えれば不可能です」
従業員たちにも分かるように、レンリは解説をした。
魔竜フェイデルが世界から姿を消し、脅威たちは人間とは別の場所に生活圏を置いたこと。迷い込んできた者には自警団や公認魔法師が対策を取ることになっていること。
「危険を冒して合いに行かない限り、悪魔族と接触するのは無理でしょう」
「うーん。じゃあ、どうやって?」
「さあ、それは分かりませんが。それ以前に、ミゼルさんの話が事実かどうかも不明ですし。妄想でそのようなことを言う人間も、この世には山といますからね」
「その悪魔ってのが、あんたの言う悪魔のこととも限らないぜ」
テーブルに並んでいた見るも悍ましい本を一抱えにしながら、ジンが何気なく呟いた。客の呼ぶ声が聞こえ、彼は店内へと戻っていく。
「とにかく、ミゼルさんに会ってみましょう。話はそれからです」
レンリがカウンターへと足を向ける。横目に夫婦の様子を観察すれば、リナリーがあからさまに安堵の表情を浮かべていた。
一時的にでもこの窮屈な聞き込みから解放されると思っているようだが、それは勘違いだ。
「お疲れ様でした。ここにはナナハネさんが残りますので、引き続きご協力よろしくお願いします」
「えっ……!?」
ミミアで指定された場所は、カルパドール病院の廃病棟であった。
元は白かったと思われる外壁は薄墨色に変色し、伸び放題の植物に覆われている。いかにもこれから会う女が好みそうな風情だった。
あまりに不気味な雰囲気にまとまる思考もまとまらず、待ち合わせる場所を彼女に任せたことを後悔する。
頭上から照りつける太陽はまるで遠慮というものを知らず、立っているだけでもほんのり汗ばむほどである。レンリが遠くの空に黒雲の一団を発見した時、土を踏み慣らす音が彼の耳に待ち人の到着を知らせた。
「ミゼル・キャスターさんですね?」
「そうだけど、あんたがレンリ?」
「はい。レンリ・クライブと申します」
ミゼル・キャスターは、色素の薄い青い瞳に豊かな栗色の紙を下ろした、見るからにおとなしそうな女であった。シャツの襟の下に銀のバッジを隠したまま、レンリは名前だけを名乗る。
「あなたが悪魔に詳しいと聞いたので、お話を伺いにきました」
「いいよ。ついといで」
軽い調子で手招きをし、緩慢な動作で歩き始めた。後を追うレンリの胸中に、黒い靄が立ち込める。
「どちらへ?」
「悪魔に会いたいんでしょ?」
「いいえ、あの、誰も会いたいとは」
「でも、興味あるんでしょ? だからきたんでしょ? 会わせたげる」
「っ!!」
振り向いたミゼルに、レンリは絶句した。先ほどまで物静かな印象を湛えていた瞳が、狂気を孕んで怪しく光っていた。
すぐにでも引き返したい気持ちで胸中は飽和状態だったが、結果として、レンリは彼女についていくことを選択した。
「あのう、ここ、通れるんですか?」
外界と屋内とを隔てる場所には、絡み合うツタが新たな扉として君臨していた。前を行くミゼルは慣れているのか、ツタとツタの僅かな隙間をするりと通り抜けて入っていく。
彼女を真似して通り抜けようとしたレンリは、柔らかいツタに片足を取られてなかなか進むことができない。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「早く」
そんな彼の様子を見ても表情を変えず、ミゼルはただ急かしただけだった。その視線にただならぬ気迫を感じ、レンリの背は薄ら寒くなるばかりだ。
しかし、もう引き返すことはできない。
吸い込まれるように歩みを進めるミゼルの背を、レンリは必死に自分を鼓舞しながら追いかけて行った。
「あのう、どこまで連れて行くおつもりですか? そろそろお話しいただきたいのですが」
「そうだね。この辺だったら、あの子もきてくれるだろうし」
ミゼルが足を止めたのは、小さな部屋が整列する廊下の入り口であった。
どの部屋も、入り口に錆びた鉄格子がはまっている。病棟は病棟でも、常人を入れておくような場所ではない。
「こんなところにわざわざ連れてくるなんてどうかしている」、レンリは内心で大いに毒づいた。
「そもそも、あなたの言う悪魔とは、どのような種族なのですか?」
「悪魔は悪魔。悪魔族だよ。ベビーサタンとか、ソーサラーとか、パペットマンとか、シャドーとか、聞いたことない?」
「いいえ、名前程度なら」
真っ赤な嘘だった。悪魔族の脅威とは、幾度となく戦火を交えている。
「呼べるというのは、いったいどうやって?」
「願うんだよ。闇の杖を一本置いてね」
「闇の杖なんて、どこで……」
「売ってないよね、普通は」
レンリの疑問を遮り、ミゼルはきっぱりと言った。青い瞳が怪しく動く。
「だって、闇属性は、魔法教会が使用を禁止してる属性だから。でも、あるとこにはあるんだよ」
この世にあるとされる属性は8つ。しかし、その実は、闇属性を抜いた7つ。このことは多くの人間が知るところであるが、その理由まではほとんど知られていない。
それは、単純にして明快。危険だからだ。
「そもそも、悪魔族は脅威の類ですよ。街中に現れたのなら、自警団に通報しなければいけない種族です」
「だったらどうする? 自警団に泣きついてみる? 悪魔を呼んだって言ってる変な女がいるんですって? それだけで自警団が動くわけないって分かるよね」
「いいえ、動けます。逮捕はできませんが、あなたの罪を暴くきっかけにはなります」
嘲笑うミゼルに、あくまでも挑発的に応じるレンリ。彼の足が、ミゼルとの距離を一歩分だけ詰めた。
「ふーん? あたしが何をしたって?」
「それは分かりませんが、あなたが潔白な人間でないことは分かります」
そして、もう一歩。
「なるほどね。悪魔を呼び出そうとしたって証言を使って、とりあえずあたしの身柄を抑えようって言うんだね」
「ご協力いただけますよね?」
念を押すように、さらに一歩。
彼の手には歴戦の杖サザンフォレスト、ミゼルの手には平凡な雷の杖。仮にミゼルがはぐれ魔法師だったとしても、この状況で不覚を取るほどレンリとて軟弱ではない。
根拠に基づいたその自信はある意味で正しく、ある意味で間違っていた。
「ディスペア」
どこからか、詠唱が聞こえた。そう思った時にはもう遅い。
目前の女に気を取られていたレンリは、背後からの一撃をまともに浴びてしまった。
胸の奥が、俄かに騒めいた。そこから黒い霧が沸き上がり、体中を侵食していく。
「……っ!!」
息が詰まり、膝が地に接した。全身が小刻みに震える。その感情を何と呼ぶのか、自身がどんな状況に置かれているのか、それさえも捉えることができない。
心が、意識が、引き摺り込まれていく。昏く、深く、果てしない闇へ。
「この子があたしの相棒の悪魔、テッドだよ。気まぐれなんだけど、ちゃんと挨拶にきてくれたみたいだね」
何者かの発する声が、記号の羅列となってレンリの頭上を通り過ぎていく。
「テッドからの忠告だよ。魔法書店の内情に首を突っ込まない方がいい。過ぎた好奇心と忠誠心は身を滅ぼすよ」
ミゼルは笑いながら続けた。その言葉が、今の彼に届くことはないと知りながら。
「そこでちょっと自分の浅はかさでも呪ってれば? 公認魔法師のレンリ・クライブさん。それから……」
やがて、高い靴音が小さくなり、そして聞こえなくなる。降り始めた雨が大地を叩く音だけが、廃病棟の中を満たしていた。
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