15 社長秘書は休まらない

 ◆15



 先刻の俄雨が嘘のように、雨雲の去ったカルパドールには伸びやかな青空が広がっていた。

 オリエンス商会からさらに奥まった裏路地に、人があまり近寄らない訳ありの空き地がある。

 領土を主張し合うように重なり合い、枝葉を伸ばす数本の大木。その中の一つに寄り掛かるようにして、彼女は立っていた。


「スカーレット!」


 男の強めの呼びかけに、瞑目していた女がゆるりと振り向いた。


「セレン」


 所々を紅に染め、全身から大粒の水滴を滴らせながら、スカーレットは力なく微笑んだ。その尋常ならざる様相に驚きつつも、秘書は忠実に支持を遂行する。


「つくづく楽ではないね。社長秘書というのも」

「ありがとう。みんな怒ってた?」

「それはもう。帰ったら覚悟しておいた方がいいね」

「そろそろボーナスを出しましょうか」

「また会計士シャルネしぶられるよ」

「シャルネちゃんは手ごわいのよね。腕が鳴るわ」


 セレンの差し出した大きなタオルを受け取り、豪快に全身を吹き始める。そのままオフィスに帰ってシャワールームに直行した方が早いだろうと思ったが、セレンは黙ってその様子を見守った。

 このままの格好でオフィスに入れば、社員たちの悲鳴が飛び交い、驚愕と狼狽の眼差しに取り囲まれるのは自明である。社員の間に無用な混乱を招かないようにという、彼女なりの気遣いなのだろう。


「さすがに君の部屋に入るのは気が引けたから、ひとまず俺の着替えを持ってきたよ。他の女子社員のでは長さが足りないだろうからね。少し大きいかもしれないが、我慢してくれ」

「ありがとう。あとで必ず返すわ」

「大丈夫なのかい?」

「全然問題ないわ。最近雨が多かったから、防水のバッグに替えておいたの。我ながらこの上ない英断だったわ」

「そうではなくて」

「私にミミアを貸してくれた人なら、大事にはしないって約束してくれたわ。とても親切な方だったし、信頼してもいいと思うわ」


 雨水を含んだ髪を後ろ手にせっせと吹きながら、スカーレットは得意げに微笑する。毎度の的外れな返答に、セレンは思わず語気を強めた。


「そうではなくて! 君は大丈夫なのかい?」

「ああ、私? 私なら平気よ。少し鉄分を摂りたいけど。んん、でも、耐魔服を装備してなかったのは失敗だったわね」


 命のやり取りを行ったあとも、彼女はいつもこうして笑う。悠然と、超然と、まるで少しも日常から逸脱していないとでも言うように。

 恐らくそれは正しいのだろう。突然の強襲、死ぬか生きるかの戦闘。それらは、彼女の日常の中に当然のように存在しているのだ。

 セレンは質問を重ねた。セレン・マクワイヤー個人としてではなく、社長秘書として、彼女の身に起きたことを把握しておく必要があった。


「誰にやられた?」

「えっと、男の子?」

「自警団には?」

「通報したわ」

「魔法教会には?」

「忘れてたわね」

「レンリには?」

「……まだよ」


 セレンの口から恋人の名前が出ると、スカーレットは髪を吹く手を止めて答えた。


「あの子には教えてやった方がいいんじゃないのかい? 心配するだろうけど、知らない方がつらいだろう」

「もちろん彼にはちゃんと話すつもりよ。ミミアに出ないから、まだ仕事中だと思うの」

「ああ、それがいいね」


 透かさず新しいタオルを差し出すと、水分をたっぷり含んだタオルが返される。

 彼女の長い髪が含んでいた雨水は、大きなタオル一枚を手で絞れるほどの重量にしていた。彼女が自分の足元を指差すので、絞ったタオルをそこへ投げ置いた。


「心配させちゃうかしら?」

「かもな」

「悲しませちゃうかしら?」

「だろうね」

「それはちょっと……嫌かな」


 不意に、彼女の顔が憂いを帯びた。青い瞳が悲しげに揺れる。スカーレットはそのまま目を伏せ、こう続けた。


「ねえ、セレン。魔竜フェイデルもいなくなった。私の素性も知られちゃった。いつまでもこのままではいられないわよね」

「いったい君は何を考えている?」

「いいえ。何でもないの。今は、まだ……」


 顔を上げたスカーレットの相貌からは、先ほどまでの感情の揺れは消えていた。サファイアブルーの澄んだ瞳には、平常通りの強い意志が見て取れる。

 例え何を考えているかは分からなくとも、彼女に言うつもりがなければそれ以上の深追いはしない。それがこの秘書である。


「ねえ、セレン。もう一つお願いがあるんだけど、いいかしら?」

「この際だ、何でも言ってくれ」

「誰もこないように見張っててくれる? 私今から着替えるから」

「ここで?」

「木陰に隠れればほとんど見えないわ。いい具合に人の気配もないし」

「もしも誰かがきたら?」

「何が何でも足止めして」

「君はつくづく無茶なことを言うね」

「こんなことを頼めるのは、20年以上の付き合いになるあなたくらいだもの」

「光栄の極みだね。涙が出るよ」

「下着、どうしましょう?」

「俺に聞かないでくれ」


 互いにしか分かり得ない微妙な距離を心地よく感じながら、二人は屈託のない微笑みを交わし合うのだった。

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