第4章  現実 〜 見知らぬ女

 見知らぬ女




「しゅん……?」

 ――誰?

「瞬……」

 ――誰、だよ。 

 二度目の声に、またそんな台詞が思い浮かんだ。しかし声にはならず、彼はそこでやっと我に返った。いつの間にかしゃがんでいた。目を瞑り、なぜか両手で耳をしっかり塞いでいる。どうしてこの格好でいるのか? 理解するのに2呼吸くらいの時間が掛かった。

 ――俺は、あの時未来の無事を祈って……。

 それから数秒後のことなのか? それとも1分ぐらいが経過しているのか? 目を閉じたままそこまでを思って、瞬はふとその静けさに気が付いた。耳にこびり付いた旋律が、今はまったく聞こえてこない。慌てて手を離し耳を澄ますと、遠くから子供たちの笑い声が聞こえている。公園でもあるのか? 一瞬だけそう思ったが、あの高層階にいて聞こえる筈がなかった。とすればいったい? 彼はドキドキしながら目を開けていく。するとそこには床などなくて、明らかに道路であろう地面があった。いつの間に? 瞬はついさっきまで、マンションの一室にいた筈だった。なのにまた知らないうちに、望みもしない場所に来てしまったらしい。しかしこれまでとは違って、瞬はこの現象の意味がしっかりと理解できた。

 ――俺は……もう生きてはいないんだ……。

 だから一瞬にして消え去っていたって不思議じゃない。これまでもきっと、こんなことが何度も繰り返されてきたのだと、彼は素直にそう思った。更にはこんな事実を知ってしまったら、長くはこの世界に留まっていられないだろう。

 ――未来は俺より先に気が付いて、今頃は天国にいるんだろうか……?

 そう思いながら、瞬はやっとアスファルトの地面から顔を上げた。やっぱりそこは室内ではなく、もちろん彼の知っていた世界でもなかった。ゆっくりと立ち上がって上を向くと、さっき度肝を抜かれた建物が未だ天高くそびえ立っている。

 ――やっぱり、俺はあの部屋から逃げ出したんだな……。

 そう思って見上げる建物のどこかで、男は今頃まだ、オニオンくさい息を吐き出しながらビールを呑んでいる。

 ――くそっ!

 旨そうにビールを口に運ぶ姿が思い浮かんで、言いようのない怒りが込み上がった。そしてほぼ同時に、窓に映っていた景色にも意識が及ぶ。そこに、夕闇が迫っていたのだ。最初あのマンションを見上げた時、既に太陽は沈みかけていた。ところが今、見上げる先には見事な青空が広がっている。太陽がしっかりと東の方にあって、昼食の時間にもまだかなり時間がありそうに思えた。

 ――俺は何を考えてるんだ! アホらしい!!

 ついさっきまでマンションにいたと思っていたのに、実際は〝さっき〟なんてもんじゃない時間が経過していた。そしてまたしても、瞬はその間のことをまるで覚えていないのだ。完全にお手上げだった。これまでのことは何から何まで勘違いで、すべてが勝手な空想ごとか? 

 ――いやいやそうじゃない。

 ――ぜんぶそっくり、ただの夢だったんだよ……。

 誰かにそう言って欲しかった。たとえ気休めでも、そんな言葉があれば今よりずっと安心できる。しかしそんな声が掛けられる筈がなく、ただ代わりに、さっきと同じ声がまた耳に届いた。 

「瞬……」

 今度はこれまで以上にはっきりと聞こえて、瞬はそこでようやく辺りを見回す。すると呆気ない程すぐ、見知らぬ女性が目に入った。距離にして5メートルくらい先から、彼を見つめるようにして立っている。この人が呼んだのか? 一瞬だけそう思うが、

 ――どうせ、見えてなんかいやしない……。

 空耳なんだと思い直して、彼は慌ててその女性から視線を外した。ところが女性の声は更に続く。

「覚えてないの?」

 瞬へと確かにそう言って、明らかに彼からの返事を待っているのだ。

 髪の長い女性だった。グレーのジャケットに白っぽいワイドパンツ姿で、キャリアウーマンが好みそうな黒い革の鞄を手に提げている。瞬のことが見えているのか? それとも女性も彼同様、不確かな存在だということか? ただなんにせよ、彼はその女性をまるで知らない。だから何とも応えようもなくて、ただただジッと見つめ返した。

「忘れちゃった……の? 」

 続いての声は微妙に震えて、その目も微かに揺らいで見えた。そこでようやく、彼は何か声にしようと思うのだ。そしてすぐに、どなたでしたっけ? そんな言葉が思い浮かんだ。するとその瞬間、女性の表情が一気に崩れる。今にも泣き出しそうに唇が震え、瞼で瞳が半分以上見えなくなった。きっと30代中盤ってところか、20代とするには少々無理があり過ぎる。ただどっちにしても、紛れもなく大人であろう女性が、

「忘れちゃったんだね、瞬……」

 と、独り言のように呟いて、再び唇を真一文字に引き結んだ。

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