第3章 見知らぬ世界 〜 知っている男(2)
知っている男(2)
電信柱の少女だけでなく、血だらけになった大男もきっと生きていた。ではどうして、彼らを死んでいるなどと思ったのか? そんな疑問への答えが口を突いて出そうになった時、瞬は視線の先に信じられないものを発見する。そこに、男がいたのだ。テーブルの奥にあるキッチンカウンターに向かって、瞬に背を向け男がごそごそと何かしている。そして驚くことに、瞬は確かにその姿を知っていた。
――こいつ……どうして?
ほぼ毎日一定の時刻に現れて、瞬の傍に纏わり付いて離れない。しかしふと気が付いてみれば、朝靄のようにどこかに消え去っている。そんな男が瞬の目の前で、見慣れたシルエットのまま立っていた。その動きから察すれば、右手には包丁が握られていて、まな板の上で細かく何かを切っているのだろう。コンコンコンという小気味よい音が響き、合わせて男の肩も小さく揺れた。長身で細身、年齢は、そこそこにいっているという前の印象のままだ。一番の特徴である長髪も、いつものように後ろで1本に束ねている。これまでも瞬はそんな姿を知っていた。しかし束ねていたのがただの輪ゴムで、結構な白髪交りだなんてことはいかせん知る由もなかったのだ。ところが今、男の姿はまさに人間そのものだった。白いシャツにジーンズという出で立ちは、これまでだったら知りようもないし、なんと男の鼻唄までが聞こえている。
男は手慣れた感じで、まな板の上のものを包丁で寄せ集め、サッと大皿の中へ流し入れた。皿には薄切りのスモークビーフが乗っていて、そこに大量のオニオンスライスが覆い被さる。そのまま皿を手にして、片方で缶ビールとフォークを持ちリビングへ向かった。するとすぐ、缶ビールのプルタブを開ける音が聞こえて、瞬はそんな音をキッチンに立ったまま聞いていた。
――あいつは、缶ビールを一口飲んで、必ずベッド脇に現れるんだ……そして……。
ふとそんな記憶が蘇って、脳裏に見慣れた光景が浮かび上がった。男は缶ビールを一口だけ喉に流し込むと、いつも隣接する寝室に入っていく。そしてベッド脇にある音響設備の電源を入れて、メモリーの中からいつもの曲を選び出すのだ。
――くそっ!
キッチンにいる瞬の耳にも、寂しげなピアノの旋律に続いて、聞き慣れたティナーサックスの音色が響いた。
――くそっ! くそっ! くそっ!
どうしようもなく知っている曲だ。聞こえてきたのは、大好きだと信じて疑いもしなかったジャズの名曲。アドリブの旋律さえすべて頭に入っているのに、どう考えてもプレイヤーの名前や曲のタイトルが出てこない。
――聴いていたのは、俺じゃない!?
そこまで思ってやっと、瞬は振り返ってリビングの方を向いた。既に男はソファに座っていて、二口目のビールを喉奥へ流し込んでいる。
――おまえが、現実だっていうのか!?
男はどうしようもなく人間的で、まったくもって幽霊だなんて思えない。
――俺は、知らないうちに死んだのか?
彷徨っていたのは、実際は瞬自身であったのか!? ずっと避け続けていた疑念が、ついに彼の頭の中で大きく渦を巻いた。
――いつからなんだ!? そうならいつ! 俺はそんなことになっちまった!?
大病をしたなんて記憶はないし、首をくくったなんて覚えだってない。
――じゃあ未来はどうだ!? さっきだって、あいつは俺のことをちゃんと……?
遊園地では確かに、未来は瞬という存在と会話までしていたのだ。
――一緒に、事故にでもあったか?
或いは遊園地からアパートにいく間に、やはり瞬だけが事故に遭って死んでしまった。
彼の頭に次から次へと、様々な疑念が浮かび上がっては消えていった。
――未来! 頼むからおまえだけは生きていてくれ! お願いだ!
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