第3章  見知らぬ世界 〜 谷瀬香織

 谷瀬香織




 ――もうダメだ……何もかもおしまいだ……。

 だからと言って、このまま1人で逃げ出すわけには絶対にいかない。

 ――お願いだから、2人とも家にいてちょうだい! 

 そんな祈るような気持ちで、香織はタクシーに乗り込んでいた。

 気が付くと、目の前に矢島が倒れ込んで、見る見る辺りが血の海となる。訳が分からないままワンピースとブラだけを掴んで、香織は全裸のまま地下室を飛び出した。とにかく服を着なければ! そんな思いと共に、待機していたエレベーターに乗り込み、血の付いた手でとにかくワンピースを羽織ろうとする。するとそこで初めて、香織は手にあるナイフに気が付くのだ。更にすぐ、このまま逃げ出そうなんて叶わないと悟った。

 ワンピースの至る所に、鮮血が飛び散っている。シャツ襟から前立て白い部分が特に目立ち、撫で付けたような赤黒い血の色がこびり付いていた。このまま表を歩けば、間違いなく不審がられるに決まっている。万一警察官にでも出会せば、そこですべてが一巻の終わりだ。

 香織は大振りのブラジャーでナイフを包み、1階でエレベーターを降りてそのまま休憩室に向かった。幸い、誰にも見咎められずに部屋に入る。石鹸で手や腕に付いた血を洗い流し、汚れ切った制服から私服に慌てて着替えた。一瞬ナイフを捨ててしまおうとも思ったが、捨てる場所も思い付かず、ブラに包んだままバッグにしまい込んだ。

 屋敷から自宅までは、タクシーで10分くらいの距離だった。ところがタクシーに乗り込んで、香織にはその10分が何倍もの長さに感じられる。娘の顔を見るのもひと月ふりなのだ。本来なら毎週末に帰れる契約だったが、矢島と深い関係になれたことで、香織は自ら家に帰ろうとはしなかった。人生の大勝負だったし、きっと娘の為にもなる。香織はそう念じて、いつ訪れるやも知れぬ機会を窺い続けていたのだった。

 ――それが、こんなことになるなんて……!

 後は娘を連れて逃げるしかなかった。ひとり娘を残して刑務所になんか入れない。こんな時、あんな男でも頼った方が、逃げ果せる確率がグッと上がる。だから多少酒が入っていたとしても、正気でいてくれることを香織は切に願っていた。

 タクシーをマンション前に待たせ、全速力でエレベーター前まで走った。香織は元々閉所恐怖症で、ただでさえこのオンボロに、普段なら絶対乗ろうとは思わなかった。しかし今はそんなこと言っていられない。6人も乗ればブザーが鳴ってしまうエレベーターが、そんな香織を嘲笑うかのようにゆっくり1階に降りてくる。香織は今この時、最悪の事態にいるという認識をしっかりと持っていた。ただ人生の終焉とまでは思っておらず、即ち生きていく力まで失ったわけではない。しかし部屋に辿り着いてすぐに、遠くに見えていた小さな希望さえ失いかける。

 いつもの見慣れた光景ではまるでなかったのだ。扉を開けて目に飛び込んだのは、見たこともないくらいに汚れ切ったキッチンスペース……流し台はゴミの山と化し、床にも一升瓶やビール缶などが所狭しと転がっている。一緒に暮らし始めて3ヶ月は経つが、こんなことになっているのは初めてのことだった。息苦しいくらいの胸騒ぎを感じて、香織は靴を脱ぎ捨て室内に上がり込む。キッチンを抜けて2間続きの部屋を見渡し、ようやく足元に娘が寝ていることに気が付いた。

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