第3章  見知らぬ世界 〜 谷瀬香織(2)

 谷瀬香織(2)




「ゆうちゃん!」

 一言そう叫んで、横たわる娘の傍にしゃがみ込む。頭が一瞬真っ白になって、不思議なくらい冷静に1つの疑問が浮かび上がった。

 いったい何をどうすれば、こんな姿になるのだろう? 一瞬だけ、そんなことを思うのだ。しかし何をどう考えようが、やはりあいつしか……いなかった。

「どうしたのよ! いったいこの子に、何をしたの!!」

 ぐったりする娘を抱きかかえ、奥の部屋へとそう叫んだ。一気に目頭が熱くなって、言い様のない怒りが悲しみとは無縁の涙を放出させる。香織の視線の先に男がいた。背中を丸め、薄汚れたジーンズから尻を半分見せて寝転んでいる。その周りに酒瓶が転がって、明らかに酔い潰れているのが見て取れた。

「ちょっと! 起きなさいよ! いったいこれはどういうこと!!」

 再びのその声に、男は小さく身体を震わせ、ほんの少しの伸びを見せる。それからゆっくり顔だけを香織に向けて、

「なんだよ……」

 眩しそうに目を瞬かせ、小さくそう呟いた。

「なんだよじゃないでしょ!? この子にいったい何をしたのよ!」

「イライラすんだよ……」

 男はポツリとそう言った後、上半身をゆっくり起こし、香織をギッと睨み付ける。

「そいつ見てっとさ、イライラすんだよ! ママはいつ帰ってくるってうるさいしよ……だいたいそんなこと、俺だって聞いてねえっての!」

 そこで大きく息を吸い、 

「だけど……死んじゃいないだろう? 今朝はまだ、息してたぜ……」

 と、息を吐きながらボソッと言って、ほんの少しだけ笑ってみせた。

 死んじゃいない――こんな言葉によって、香織は今この時、何を優先すべきなのかを思い知る。待たせていたタクシーまで優美を運び、驚いた目を向ける運転手に病院の名前を声高に叫んだ。ところが運転手は呆気に取られ、優美の姿を見つめたまま動かない。

「お願いです! 娘が死にそうなんです!」

 続いたそんな声に、運転手はやっと我に返ったようだった。前を向くなりアクセルを踏み込み、車はエンジン音を響かせ走り出す。病院への道は比較的空いていて、10分程で目的地に到着。運転手が無線で急患搬送を連絡したお陰で、タクシー会社が更に病院にも連絡してくれた。到着と共に数人の看護師が走り寄り、優美の小さな身体がストレッチャーへと乗せられる。そしてあっという間に、急患入口から長い廊下の向こうへ消えた。

 そしてそれから30分後、香織は再びタクシーへと乗り込む。

 ――待っててね……ママも、もうすぐそっちに行くからね。

 そんな思いを胸に、彼女は再びマンションへと向かうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る