第2章  異次元の時 〜 葬式(2)

 葬式(2)

 



 もしかすると、〝おじさん〟とやらが顔を出すかも知れない。そうなったら、いったい何を話せばいいのか? そんなことを考えながらも、本来なら覗くことさえ憚れる他人の部屋へ、彼は躊躇することなく足を踏み入れる。するとすぐ三畳程の台所と、右奥にある畳の部屋が覗き見えた。扉の奥には玄関らしき小さな空間があって、瞬はそこに立っただけで、カビくさい湿った空気に息をするのも辛くなる。まさしく今ここに、そこら中の湿気という湿気が呼び寄せられている感じだった。ポケットからハンカチを取り出し、口元に充てて更に奥へと進んでいく。

 ――ここには、もう誰もいない。

 どんなに鈍感な人間であろうと、この部屋には数分だって留まれない。台所に立った途端、そのくらいの悪臭が湿気と共に纏わり付いた。胃袋に溜まったアルコールを取り出して、胃液と一緒に部屋中にバラまく。そしてその後すぐに、線香やらお香やらを懸命に焚いた。そんな想像すらしてしまう強烈な臭いが、身体中の皮膚からジワジワと入り込む気さえする。

 瞬はハンカチの裏側で浅い息を繰り返しながら、台所から畳の部屋まで周りの様子を窺った。そこは畳四畳半で、開け放たれた障子の奥にもう一つ部屋がある。どちらの空間にも人の気配はなくて、それどころかまるで生活感が感じられない。家具やらなんやら、何一つそれらしいものが置かれていないのだ。ただ唯一畳に残された汚れや傷跡が、ここで営まれていたものが〝普通〟ではなかったと感じさせた。瞬は見ているのが辛くなり、すぐにそこから離れて奥の和室へ移動する。するとこれまで、障子の陰になっていたものが唐突に姿を現した。

 アパートの北側、隣の家の壁だけを映し出す窓の下に、勉強机のような小さな台が置かれている。その上に額に入った大きな写真が飾られていて、瞬はそこに写っている人物を間違いなく知っていた。その表情は柔らかく、記憶にある顔とは段違いに化粧も薄い。軽くウエーブの掛かった髪を肩まで垂らし、パステルカラーの花柄ブラウスが、いい感じにその胸元を覆い隠している。

 そこに写っていた人物、それは谷瀬香織だったのだ。地下室で見せた淫靡な感じは完全に消え失せ、上品で美しい女性という印象だけがそこにはあった。 

 ――やっぱり、あの女も死んでたんだ……。

 きっとあの地下室のどこかに、彼女の死体もあったのだろう。瞬はそう思って、何気なくその写真に手を伸ばしかける。その時、また時が彼を置き去りにした。捨て置かれていた瞬の記憶が、フッと目の前に差し出されたように、それはいきなり現れる。

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