第2章  異次元の時 〜 矢島愛菜(4)

 矢島愛菜(4)




 矢島の両親は幼い頃に亡くなって、彼は親戚の家でお決まりの苦労を散々経験する。その後たった15歳かそこらで東京に出て、結果今あるような生活を手に入れた。

 そんなことがどれだけ大変なことなのか……。

 ――あの女は、まるで何も解っていない!

 あからさまに矢島を避ける様や、蔑むようなその目付きを知って、香織は愛菜のことがどんどん嫌いになっていった。愛菜には優しい両親が揃っていて、甘ったるい愛情と強固な道標の元、苦労など知りもしないで生きてきたに決まっている。

 ――いったい、あんたは何様なのよ!

 香織は次第に、心の底からそんなムカつきを覚えるようになったのだ。だいたい愛菜という女は、矢島の後にそのままでは風呂に入らない。

 「服を脱いでそのまま湯船に浸かるのよ。まったく、そんなことも教わってこなかったのかしらね……これだから育ちが悪い人って嫌なのよ!」

 肛門に付着した便や大腸菌だらけのお湯に、誰が入ろうなどと思えるのか……彼女はそう言って、使用人にだだっ広い風呂場を隅々まで清掃させ、新たにお湯を張らせるのだ。

 それ以外にも、食べ方が汚い――咀嚼の度に何とも粘っこい音を立てる――とか、服のセンスが田舎クサいだのと、次から次へと口にした。きっとそんな話を聞けば、香織が面白がるとでも思ったのだろう。ところがそんなグチを聞かされる度、愛菜への怒りが加速度的に増していく。そして決定的だったのは、

「やっぱり大事なのは教育よ。はじめはね、あそこまでの会社を作った人だからって思ってたの。でもそんなのは人間の品格とは関係なしね。自分の健康にも無頓着って、結局頭が悪いってことなのよ! だから最近、あの人はわたしに向かってなんにも言えない!」

 学もなく、自分より頭の悪い矢島は文句など言える筈もない。そう言って大笑いを見せる愛菜を、香織はたったひと月で完全に許せなくなっていた。

 ――わたしなら、あの人に優しくしてあげられるのに……。

 ジリジリと焦げ付くような思いに駆られて、彼女は一か八かの賭けに出た。万一この決心が裏目に出れば、すべてが振り出しに戻ってしまう。ただ上手くいったなら、夢のような生活が手に入るかもしれなかった。だからこそ慎重に、決して慌てないで事を運ぶ。そうすれば必ずや上手くいくと、香織は信じて疑わなかった。ところがここ最近の矢島を見ていて、そんな悠長な場合ではないと感じ始める。

 ――入院でもされたら、そこで、すべて終わりだわ……。

 矢島は既にステーキを平らげ、デザートのチーズケーキを頬張っている。そんな矢島を前に、香織は決行の時を思い浮かべて、ただただ緊張の面持ちを見せていた。

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