第2章  異次元の時 〜 矢島愛菜(3)

 矢島愛菜(3)

 



 一方、愛菜が立ち上がるとほぼ同時に、2人の使用人の顔が彼女の方をサッと向いた。愛菜はその2人をチラ見だけして、離れ立つもう1人の方に視線を向ける。そいつが今どんな顔をしているか、ふと愛菜は気になったのだ。ところが女は矢島など見ていなかった。矢島とは反対方向に視線を向けて、顔には薄笑いさえ浮かべている。どう考えても、反対側にあるキッチンに、笑いを誘うものなどあるわけがないのだ。

 ――なんなのよ? いったい、何がおかしいっての!?

 そう思った途端、愛菜の中で何かが弾けた。

 ――好きになさい! あんな情けない男、あんたにのし付けてくれてやるわ!

 声にするのをグッと堪え、心の中だけでそう叫ぶ。愛菜はそのまま席を離れて、ダイニングルームから出て行ってしまうのだ。その間、矢島が声を発することは一切なく、静寂の中愛菜の足音だけが響き渡った。やがて押し開かれた扉が音を立てて閉まって、使用人2人の目が何かに怯えて下を向いた。そこでもう1人の使用人も、矢島へようやく顔を向ける。その時だった。愛菜がいた辺りを睨み付け、矢島の大声が響き渡った。

「おい、おまえは誰だ! 誰に断ってそんなところにいる!」

 声は誰もいない空間に向けられ、まさに鬼気迫る印象に伝わり響く。一斉にそこにいる全員の目が矢島に向いて、

「おい! おまえらにはあれが見えんのか!?」 

 そこで初めて、矢島の視線が正面から外れた。

「ほら、そこだ! すぐそこに……」

 そこまで言って、矢島は再び使用人から己の正面に目を向ける。 

 ――え? 

 矢島の動きがピタッと止まった。

 驚きは声にはならず、その表情だけにしっかりと浮かぶ。

 やがて矢島の顔が大きく歪み、手からナイフとフォークが滑り落ちた。テーブルの上がガチャンと鳴って、2人の使用人が慌てて駆け寄ってくる。

 その間、矢島の顔付きは面白いように変化した。大きく開かれていた目をしばたかせ、更には首をぐっと前方に突き出す。そうしておいて、その顔全体を上下左右へと振り動かすのだ。しかし目線だけは1点を見つめ、ずっと愛菜がいた辺りに向けられたまま。そんなことが十数秒続いて、突然フッと矢島の顔から力が抜けた。徐に使用人に顔を向け、何もない手でナイフとフォークを使う仕草をして見せる。2人は一瞬呆気に取られ、それでも慌てて新しいものを矢島の前にセットした。

 すると何事もなかったように、彼は再びステーキを口へ運び始める。そうして2人の使用人も胸を撫で下ろし、いつもの定位置へと舞い戻った。しかしもう1人は矢島を見つめたまま、その場にジッと立ち尽くして動かない。 

 女の名は谷瀬香織。この屋敷で働き始めて、日に日に膨れ上がる葛藤に大いに苦しんだのだ。そんな心の揺らぎの行き着くところは、いつも狂おしいまでのムカつきだった。

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