第1章  日常 〜 電信柱の少女

 電信柱の少女

 

 


 の少女はノースリーブのワンピースを着て、電信柱と向かい合うように立っていた。辺りは既に真っ暗で、白いワンピースだけがぼうっと浮き上がって見える。最初は、こんな時間にどうしたんだろう? そう思いながらも俺はそのまま通り過ぎようとした。その時、彼女の掠れた声が聞こえてきたんだ。それはまるで呪文のようで、

「痛くない、痛くない、痛くない……」

 そう呟きながら、少女が電信柱におでこをコツンコツンと打ち付けている。

 俺は思わず立ち止まり、その姿を上から下まで眺めていった。すると真っ白に見えた服はあちこち汚れていて、この寒空になんと裸足で立っている。虐待か……? そんなことを思いながら、俺は少女の手にある小さな本に目を向けた。彼女の指と指の間から、狸か何か、とにかく青くて丸い顔の絵がチラッと見える。しかし実際は読んでなんかいないんだ。確かに、視線だけは開かれたページに向けられている。ところがおでこを打ち付ける度、その目がくるりと円を描いて、一向にその先へと進んでいかない。

 どうしたの……? 確かそんなことを言ったんだと思う。少女が驚いた顔を向け、その瞬間俺は声を掛けたことを猛烈に後悔する。火傷……? これまで見えていた顔の反対側は、まさに火で炙られたように真っ赤だった。顔片側が腫れ上がり、火傷のような爛れが口元から耳まで広がっている。その小さく可愛らしい耳からも、黄色い膿みのようなものが流れ出し、どう見たって少女の状態は〝普通〟じゃない。

 ――大怪我、じゃないか!

 そして同時に、俺は〝もしかしたら〟って思った。だからもう一歩近付いて、少女の方に両手を伸ばす。すると彼女の顔が一瞬で強ばり、その目がギュッと閉じられた。それでも構うことなく、

「可哀想に……痛かったね……辛かったね……」

 小さくそう声にして、少女の肩に両手をソッと置こうとしたんだ。するとやっぱり、

 ――どうして今日に限って、続けざまにこうなるんだ? 

 俺はほんの一瞬、そんな思いにイラついてしまう。

 確かに色のない透明なやつらは、最近になって見掛けることは多かった。だけどこの少女のように、まるで人間ってタイプは滅多なことでは出てこない。ところが今日、さっきのオヤジに続いてまただった。俺の手は少女の肩に触れることなく、そのまま身体の中にめり込んだんだ。それでも、今度ばかりはそう簡単に無視できない。俺を見上げる少女の姿は、そうしてしまうにはあまりに悲惨で可哀想過ぎた。そして更に、

「痛くないよ。痛くない、痛くないって思ってれば、本当に痛くなくなるんだよ……」

 可愛らしい口元からこんな言葉が発せられれば、何とかしてやりたいって思うのが人情ってもんだ。だから俺はこの瞬間、少女にとことん付き合おうと心に決める。彼女の身体から両手を引いて、今一度その姿にしっかりと目を向けた。

 きっと、これが致命傷になったのか? そう思えるくらい、少女の髪全体に赤黒い体液がべったりと付いていた。傷口は分からなかったが、頭で固まりかけている体液が、背中から腰辺りまで筋を作って続いている。

「そうか、だからさっきから、痛くない痛くないって言ってたんだね……偉いね……」

 何とか笑顔でそう言って、できるなら抱きしめてあげたいと俺は本気で思ったんだ。

 そして少女は、自分のことを〝ゆうちゃん〟だと言って返した。それは優子なのか優美であるのか、もしかすると優香なのかも知れない。ただ彼女は小さな声で、

「ゆうちゃんは、偉いの……」と、まるで抑揚のない声で答えてくる。

「お母さん……お母さんは今、どこにいるの?」

 するとゆうちゃんは黙ったまま、首を小さく左右に振った。

「じゃ、おうちには誰もいないの? それともゆうちゃんはここで、お母さんの帰りをずっと待っているのかな?」

 伏し目がちではあったが、ゆうちゃんはそこで初めて顔を上げ、俺を見つめながら小さな声で呟いた。

「おじさんが……いるの」

「そうか、おじさんがいるんだ。ゆうちゃんは、そのおじさんに叱られちゃったの?」

 だから、ここに立っているのか? そう続けようとした時、ゆうちゃんの表情が一気に歪んだ。と同時に持っていた本が地面に落ちて、〝気を付け〟をしている姿勢になる。両手に握り拳を作って、それは明らかに俺の言葉への反応だった。

「どうしたの? 」

 声にしてみるが返事はない。

「そんなにギュッと握ってると、お手手が痛くなっちゃうよ」

 だから俺はそう続けて、ゆうちゃんと向かい合うようにしてしゃがみ込んだ。すると正面にある大きな瞳が、俺の視線を避けるように時計回りにぐるりと回る。そうして、少女は自分の足元をジッと見つめ、それでも途切れ途切れに言ったのだった。

「誰にも……見せちゃいけないの。ぎゅっと、してないと……いけないの……」

「それは誰に言われたの? お母さん? それとも、おじさんの方かな?」

 するとゆうちゃんは下を向いたまま、「おじさん……」とだけポツリと返す。

 ゆうちゃんはその〝おじさん〟とやらと、目の前にあるアパートで暫く一緒に暮らしていた。母親もいないわけではなくて、定期的に帰ってきてはいるらしい。そんなことをポツリポツリと返しながら、依然、彼女の身体は小刻みに震えている。

「さ、おじさんに言わないから、お手手広げて見せて頂戴……」

 手に何か痣でもあるのか、とにかくおじさんとやらは、人前ではグーをしていろと言っているらしい。それでも何度かの俺の言葉で、ゆうちゃんはようやく両手を差し出してくれる。勿論掌を見せたからって、彼女の身にこれ以上何か起きるわけはない。しかしそんなことを知らない彼女にとっては、それなりの恐怖に打ち勝ってのことなんだ。そんなふうに感じて、俺は差し出された両手をついつい握りしめたくなる。もうちょっとそれらしく、例えば身体がどことなく透けて見えるなら、俺は絶対にこんなこと思わない。ところが目の前にいる少女は、見ているだけならまるで人間と変わらなかった。たまに現れる色付きの奴らは、実際そこにはいないくせに、皆素晴しい臨場感を伴って現れる。

 とにかくそんなわけで、当然俺の差し出した両手は空を切り、一瞬だけ彼女の拳と重なり合った。それを見たゆうちゃんの顔は、まさに俺が想像していた通りのもの。死んでいるのも知らず、死に至った姿のまま現世に留まり彷徨っている。だから手品でも見たように目を見開き、まさに驚いた顔を俺へ向けた。そしてその時、拳からスッと力が抜けて、ゆうちゃんの掌がゆっくりと開かれる。

 ――ふざけるな……。

 目を疑った。 

 ――ふざけやがって……。

 続いてすぐに、焦げ付くような怒りが込み上げてくる。

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