バード・ダイブ
蔵野杖人
バード・ダイブ
どこまでも、垂直に上がって行く。バイクのエンジンが、腹の底に響くような唸りを上げている。流線型のボディが、雲一つない真っ青な空を、ただ真っ直ぐに、まるで稲妻みたいな勢いで切り裂いていく。
まるで、この世界でたったふたりぼっちになったみたいだった。確かなのは、僕らを焼き尽くそうとする真っ白な太陽と、それに突っ込むみたいにしてバイクを飛ばす彼女の体温、それから、バイクの周囲で荒れ狂う風の感触だけだ。
不意に、彼女のヘルメットが、吹き飛んだ。瞬きをする。ヘルメットに押し込まれていた彼女の長い黒髪が、風になぶられて踊った。
あ、と、漏らしたのは、どちらだっただろう。
憧れは、泣きたいほどに美しかった。
◆
「高いところに登るとさ。遠くまで見渡せるじゃない。それが好きなのよ」
というのは、彼女の言だった。彼女は、僕よりも五つ上で、小麦の色をした僕とは違って真っ白な肌をしていた。彼女がその黒くて長い髪をなびかせて、バイクで海の上を走っていく姿を見るのが、僕はとても好きだった。とは言え、彼女が最も好きだったのは、海上を走ることなどではなかったが。
バード・ダイブ。
高出力のバイクを用いて、垂直上昇と垂直降下を行い、その高さとタイムを競う、非常に無法な競技――競技とも呼べないが、彼女はこれを競技と言って憚らなかった――である。バイクの形状が鳥に似ているとのことで、この名がついた。誰よりも高く飛び、誰よりも速く落ちた人間が勝ち、というこの競技は、毎年両手では足りないほどの死人を出しながら、それでも、若者の間で根強い人気を持っていた。
であるから、その『若者』の一人である彼女が、至極馬鹿らしい、競技とも呼べないその競技に夢中なのは、まったく自然なことでもあったのだ。その麻疹じみた若い熱病が、彼女をいくら踊らせていようとも、僕は文句などない。強いてただひとつだけ文句を言うとすれば、その熱狂に何の興味もないこの僕を、なぜか巻き込んでいるということだけだった。僕は苦々しいことに習慣と化してしまったバイクのメンテナンスを手伝いながら、その理不尽に唇を尖らせる。こんなことをしている暇があるなら、三ブロック先の古書店で買ってきた本のサルベージをしたい。店先で少し読み込んでみた感じ、十数冊は入っているだろうし、潮風で完全に読めなくなる前に解析して復元したいのだが。
「あたしね、世界がどこまでも続いてるんだってことを、感じていたいの」
そんなことを言った彼女に、僕は「はあ」と気のない返事をした。彼女がよくわからないことを言うのはいつものことだったので、適当に流しておこうと思ったのだ。特に、あの異様な飛翔と落下を行って帰って来た後の彼女は、興奮のせいで猶更よくわからないことを言い始める。彼女の妄言に付き合っていたら、こっちの頭がおかしくなるのに違いなかった。少なくとも僕はそう思っていたし、多分、正しい。
だが、そんな自分の考えは、極めて単純、かつ残念な思考回路をしている彼女にはまるで伝わらなかったらしい。こともあろうか彼女は、バイクスーツを僕の目の前で脱ぎながら、「子供には難しいことを言っちゃったかな」と、意地の悪い笑顔を浮かべたのだった。
「子供じゃないよ。もう十四だ」
「子供よ。あたしより五つも下だわ」
「子供か大人かって、相対的に決まるものじゃないだろ」
「じゃあ、あたしの言うことだって、わかるでしょう?」
スーツを脱ぎ終わり、殆ど下着のような姿になってしまった彼女の体は、相変わらず細く真っ白で、ガレージに差し込む真昼の太陽と相まって、ひどく眩しい。今日は風が吹いていないので、日差しも揺らがず、彼女をまるで何か神聖なもののようにさえ見せていた。
「世界には終わりがあるんだよ」
グリスを塗っていた手を止め、僕は目を伏せながら、強めな語気で言う。
「世界は、僕らなんかじゃ絶対いけっこないところに果てがあって、海の水がぶつかって波を立ててるんだ。世界はそういう構造をしてるんだって、子供の頃教科書で習ったろ」
「ばっかねえ、そんなの信じてるの?」
「あんたは信じてないって言うのかよ?」
「信じてないわよ。だって、この目で見たわけじゃないもの」
「経験したもの以外理解しないなんて、馬鹿のやることだぞ」
「いいのよ、あたしは馬鹿なんだから」
僕もこれには、反論できなかった。実際に彼女は学校の成績がいいわけではなかったし、本なんて読ませようものなら、三つ瞬きもしないうちに飽きる。だが、自分で自分を馬鹿と称することに、抵抗はないのだろうか。いや、ないのだろうことは、長い付き合いなので、僕もわかってはいたのだが。言葉を返せず黙っていると、彼女は一本取ってやったと言わんばかりの得意げな顔をしていた。決して誇れることではないのだが、指摘するのも面倒なので、僕は何も言わなかった。彼女が、下着姿のまま、うろうろと服を捜して歩き回る。脱ぐ前に着替えを用意しろと、何度言っても彼女は聞いてくれない。
「世界に終端なんてないのよ、きっと」
ぶつくさと、服がないことに文句を言いながら、彼女が不意に呟く。僕だって、本当は、世界に終わりがあると信じているわけじゃなかった。だが、僕らには長距離の移動を可能にする手段がない。僕らの持ち得るすべての移動手段の中でも、上から数えた方が早いくらいパワーのある彼女の大型バイクでさえ、多分、この海を本気で出て行こうとしたら、途中でエンジンが焼き付いて沈むだろう。海上都市とは名ばかりで、鉄くずの寄せ集めでしかないこの街は、僕らの故郷でもあったが、檻にも似ていた。潮の匂いと、錆びついて死にゆく街の匂いには、懐かしさを感じながらもうんざりする。千年計画の残りカス。そんな話を聞いたって、現実の何が変わるわけじゃない。小さなブロックに崩れ果て、海の上に鉄の群島として浮かんでいる、この街の、何が変わるわけでも。
僕らは多分、どこへも行けない。それを、僕はわかっている。諦めている。それだけだ。出来もしないことに時間を費やせるほど、僕らの人生は長いわけじゃない。僕らは僕らの親同様、適当に生きて、適当に子供を産んで、そして順調に数を減らし、そして死ぬ。
あの若い熱病の原因なんて、みんなわかっていた。どこへも行けない僕らの鬱屈が、せめてもの慰みにと、あの高い空へと引き摺って行くのだ。
「……まあ、好きに飛びなよ」
僕はメンテ用に解体したバイクの部品に手を伸ばしながらそう言った。諦めてしまった自分が、諦めない彼女に言えることは何もない。できるとしたら、バイクのメンテナンスの手伝いだけだ。もっとも、最近は全部僕がやっているような気もするが。彼女は、僕の言葉にきょとんとした。ぱちくりと目を瞬かせて、彼女が僕を見る。その海と同じ色の視線に、僕もまた、目を瞬かせる。「言ってなかったっけ」。彼女が首を傾げたので、僕も首を傾げた。
「今度、一緒に飛ぶのよ」
「……」
ちょっと理解ができなかった。手に持った部品を元の場所に置いて、眉根を寄せる。どうにも頭痛がしてきたのは、日差しが強すぎるからではないはずだ。俯いて額を押さえてみたが、頭痛は収まりそうにない。
「待って、僕はバイクの免許持ってないよ」
「要らないわ。後ろに乗ってるだけでいいもの」
「危ないことはしたくない!」
「大丈夫大丈夫、私なんてもう百回以上飛んでるけど、右足を折っただけよ」
「何も大丈夫じゃないんだけど!? 足折れてるじゃん!!」
「だいじょーぶだいじょーぶ。気をつけてれば、憧れの空はすぐそこよ!」
「憧れてないよ!!」
「嘘」
悲鳴じみた声で主張する僕を、彼女が、不意に凛とした声で否定した。はっとして顔を上げると、いつも彼女が浮かべている、人好きのする笑顔はどこにもなかった。今や、彼女の整った造作には恐ろしいほどの真っ直ぐさだけがある。
「ね、一緒に飛ぼう」
彼女の言葉に、僕は息を飲んだ。未だに服を着ていない彼女の体は、白くて、眩しい。
そして、僕もまた、空へと引き摺られたのだった。
◆
海の上を、空気の層によって浮き上がった機体が、推進ブースターの噴射のままに、勢いよく滑って行く。跳ねた水飛沫の感触を足に受けながら、彼女の背中にへばりついた僕は、衝撃に備えて彼女の腹に回した腕に力を込めた。彼女の飛翔は、かなり特徴的だ。短い滑走で、突然飛ぶ。しかも急角度で上がるものだから、ものすごい衝撃が来る。最初に乗った時などは衝撃で吹っ飛ぶかと思ったし、降りた後は足が動かなくてその場に崩れ落ちた。自分で思い返しても無様に過ぎたので、てっきり彼女にも馬鹿にされると思ったのだが、彼女は何の軽口も叩かなかった。それどころか、僕が歩けるようになるまで、ずっと横にいてくれたのだった。
ぐん、と、いつもの急上昇が始まる。普段はひさしのついた帽子にゴーグルしかつけていない彼女も、この時ばかりはヘルメットをかぶる。勿論、僕もかぶっている。風に踊るあの長い髪が見られないのは多少残念だったが、安全が優先されるので仕方ない。地上へすべてを縛り付けようとする例の力を振り切るように、彼女は真上へ向かって直進する。流線型を描くバイクのフロント部分が、空気を裂いて、ごうごうと唸りを上げるのが聞こえた。
飛んでいる間、僕らは喋らない。舌を噛むからだ。静かな世界で、真っ白な太陽が僕らを焼き尽くそうとしているのだけを見ている。そして彼女が、不意に止まる。上昇と同じく、それは突然だ。当然のように放り出されそうになって、彼女にしがみつく。体をバイクに固定してはいるが、それでもその、底冷えする浮遊感には、耐えられないのだ。当然、周りを見る余裕などない。だが、ブースターを操って方向転換をするまでの、空に漂う一瞬。その一瞬で、彼女は世界を見ているのだろう。
彼女が落下を始めたバイクを方向転換させて、またエンジンをふかす。落下の速度に増して機体が落ちていくのは、上昇よりも強い恐怖だった。大体の場合、事故が起こるのは、この落下の最中なのだ。止まりきれずに叩きつけられて死んだって、誰も葬式など出してくれない。僕は目を閉じ、彼女が成功することを祈る。ヘルメットまでも吹き飛ばされそうな速度の中、真っ暗な世界でまた強い回転と衝撃があって、僕は彼女がぶつかる直前で止まったことを知るのだった。
「大会は明後日だけど、だいぶ慣れた?」
「慣れるのは無理かなあ……」
解体したバイクの部品を丁寧に洗い、グリスを塗っていく。二人分のスーツを入れた洗濯機が、家の外でごうんごうんと音を立てていた。遥か昔に興された、大がかりな計画の失敗結果であるところのこの街では、真水というのはそれほど貴重でもない。無駄遣いをすればそりゃあ怒られることもあるが、結局みんな、他人がどれだけ水を使ったかなんて、それほど気にしていないのだった。そう言えば、あの教科書、この街が出来る前、つまり僕らのご先祖様がどこに住んでいたのかなんて少しも書く気がないようだったな。そんなことをぼんやり思う。
「まあ、慣れなくっても、大会の日に気絶せずにいてくれたらいいだけだから」
「気絶しても文句言わないでくれよ」
「言わないわよ。多分」
「そこはハッキリ言いきってほしい」
溜息を吐きながら、僕は作業の手を止めた。彼女は相変わらず下着みたいな格好のままだが、僕はちゃんと、シャツとジーンズを着ている。体も拭いてから着たし、窓から吹き込む風が、なかなか心地よかった。
「……あのさあ」
「なあに?」
「なんで、僕が空に憧れてると思ったの」
ガレージの床に座り込んだまま、僕は彼女に問う。彼女は、あの日のように目をぱちくりさせて、僕を見つめ返していた。
「わかるわよ」
「だから、なんで?」
問いを重ねると、彼女は、下着姿のまま、ぺたりと尻を地面につけて座り込んだ。陰にいるとは言え床に直は熱いのでは、と思ったら、案の定「あつっ」と悲鳴を上げたので、僕は思わず笑ってしまった。立ち上がった彼女に足を軽く蹴られたのは、仕方ないだろう。
「だって、ずっと、あたしがバイク乗ってるとこ、眩しそうに見てたじゃない。大会で優勝して帰って来た時とか、特に。なんか、きらきらしたもの見るみたいな顔でさ」
拗ねた様子で唇を尖らせながら、彼女はそう答えた。
「あれって、憧れでしょ。それくらいわかるわ」
「ふうん……」
僕は、思ったよりちゃんとした答えが返って来たので、内心とても驚いていた。彼女のことなので、勘よ、とか、なんとなく、とか、そういう曖昧な答えが返ってくると思っていたのだ。彼女が、僕の驚きなど気付いた風もなく、言葉を続ける。
「それで、いつか後ろに乗せてあげようかなあ、と思ってたんだけど、やっぱり、事故とか起こっちゃうと怖いし。あたしだけならともかく、きみを巻き込むのは怖かったのよ。だから、必須参加条件が二人乗り、って大会に合わせたの。大会なら、何か起こっても、他の参加者とかがフォローしてくれたりするしね」
そう言って彼女は、長い黒髪をかきあげると、にっこりと笑った。うっとりしたようなその笑顔にどきりとして、僕は思わず彼女から目を逸らす。どこか遠くを見ているようにも感じるその笑顔は、殆ど少女ではなくなった彼女の姿と相まって、ひどく現実味のないものとして僕の胸に像を作った。
「明後日は、一緒に頑張ろうね」
僕は結局、その言葉に何と返事をしたのか、思い出せない。当然、そこから帰るまでに、どんな会話をしたのかも。それなのに、帰り際頭を撫でられた感触だけが、胸の像と一緒に焦げ付いたような影を作っていて、夜になっても離れなかったのだった。
◆
大会当日は、よく晴れていた。
影が黒々と地面に落ちていて、目に痛いと思う。少しくらい曇ってくれていてもよかったのに。真っ白に燃える太陽が、なんだか憎らしかった。
参加申請をした時にもらったという番号が呼ばれて、僕と彼女は、バイクに乗った。あの女だ、と、他の参加者が言うのが、漏れ聞こえてくる。あの女の上昇はすげえかっこいいんだよ。本当に鳥みたいでさ。それは間違いなく彼女への賛辞だった、彼女がこれまで行ってきたことに対する、賛辞。黒い影の中に、それは溶けて行った。
「……今日は、いつもより、ずっと高く飛んであげる」
ヘルメット越しのくぐもった声で、彼女が、楽しげに言った。エンジンの音の中でも、彼女の声は、はっきりと聞き取れる。
「もし見られるなら、見ておいて」
何を、と、僕は訊きたかった。何を、見ろと。僕は別に鈍いやつじゃないし、頭の回転が遅いわけでもない。だから当然、彼女が意図するものはわかっていた。それでも僕は、一体彼女が何を見て欲しいのか、訊きたかったのだ。だが僕が口を開くより先に、彼女はバイクのスピードを上げてしまった。
水飛沫が、鬱陶しいほど僕の足を叩く。直後、息が詰まるような衝撃がやってきて、僕らのバイクが、例の急上昇をした。大きな歓声が、どこかで聞こえたように思う。だがそれもすぐに風を切り裂く轟音に掻き消されてしまった。バイクと体を繋ぐ固定用のベルトが、風に震えてびりびりと鳴った。僕ら二人を縛り付けたバイクが、どこまでも、垂直に上がって行く。エンジンが、腹の底に響くような唸りを上げていた。流線型のボディが、雲一つない真っ青な空を、ただ真っ直ぐに、まるで稲妻みたいな勢いで切り裂いていく――その姿が、乗っている当の僕にさえ見えるようだった。視界は、ゴーグル越しでさえ、強い光に白い。
まるで、この世界でたったふたりぼっちになったみたいだった。焦げ付いたような黒い影も、溶けていく賛辞も、鬱陶しい水飛沫も、陽炎みたいな歓声も、ない。確かなのは、僕らを焼き尽くそうとする真っ白な太陽と、それに突っ込むみたいにしてバイクを飛ばす彼女の体温、それから、バイクの周囲で荒れ狂う風の感触だけだ。
僕らしかいないんだ。僕らだけが、今、ここにいるたった二人なんだ。そう思うと、なぜだか、とても甘やかな眩暈がするようだった。太陽が、眩しすぎたのかもしれない。
不意に、彼女のヘルメットが、吹き飛んだ。驚いて、一度瞬きをする。ヘルメットに押し込まれていた彼女の長い黒髪が、風になぶられて踊った。
あ、と、漏らしたのは、どちらだっただろう。
彼女の体が傾いで、バイクが推進力を失い、姿勢維持もできず空中に放り出される。何が起こったのか、最初、僕にはまったくわからなかった。突然彼女のヘルメットが吹き飛んだようにしか見えなかったのだ。しがみついていた彼女の体が、ぐにゃりと力を失う。その有様に動転して、落下を始める前の一瞬で思わず僕はヘルメットを捜し、そして、見た。
青い海。
青い空。
そしてそれが交わる――世界の向こう側、が。
見えた、気が、した。
彼女の目の色と同じ海が、眼下にどこまでも広がっている。白い波もよく見えない、凪のような海だった。ぎらつく真昼の太陽を抱えた空は、遠くの方で色が薄くなり、白い雲を引き寄せるようにしながら、海と一本の線を形作っている。彼女が見ていたのは、これなのだろうか。その線は、教科書にある世界の終端であるようにも思える。だが、僕は確かに、その向こう側を、見た。そう感じた。その先を、僕は確かに感じたのだった。それはきっと、彼女が感じていたものと同じものだったろう。そうであってほしい、この感情の答え合わせをさせてくれ。
ついに落下が始まった。僕らの背中の方から、バイクは落ち始めていた。視界が回って、空だけが見える。憧れの空はすぐそこよ。それくらいわかるわ……あの日、彼女の形に焦げ付いた僕の胸のシルエットが、突然彼女の言葉を繰り返した。溶けて消えたはずの歓声が、わあ、と弾けるように広がる。思い出すのは、バイクの免許を取ったその日に、飛び入りでバード・ダイブの大会に参加し、優勝して帰って来た彼女の姿だった。彼女は免許を取ったその日のために、十四の時からバイクを自分で作っていたのだった。僕はそんな彼女について行って、彼女が空へ舞いあがるのを、下から眺めていた。度胸試しじみたその飛翔は、僕の心臓を掴んで離さなかった。それから僕は、彼女が大会へ行く時は、絶対について行くようになった。
青い空に舞い上がる、真っ白な機体。白いペンキしか持っていなかったから、彼女は自分のバイクを白く塗った。白い鳥が飛ぶみたいで、僕はそれが、好きだった。
真っ白な肌をした彼女が、好きだった。
青い目を細めて笑う彼女が、好きだった。
長く黒い髪を躍らせて走る彼女が、好きだった。
空でもバイクでもなく、僕はただ、彼女が、好きだったのだ。
上昇した分だけ、バイクは落ちていく。僕は、馬鹿野郎、と、叫んだ。だがその声は、どこにも届かなかった。風に揉まれた彼女の長い髪から、白い羽が吹き飛ぶのが見えた。なるほど、彼女の頭部に、鳥がぶつかったのらしかった。僕は笑いがこらえきれなくて、声を上げて笑った。おかしくて、たまらなかった。こんな事故、今まで一度も起こったことなどなかったのに。僕らは、きっと高く飛び過ぎたのだった。
ばちん、と、ベルトの金具の弾ける音がした。笑うのをやめてそちらを見れば、彼女の手袋に包まれた指先が、固定ベルトの金具を、外していた。随分硬い金具だったはずなのに。額から血を流した彼女が、ゆっくりとした動きでこちらを向く。彼女は、ごめんねえ、と、言った――のだ、と、思う。
彼女は僕を固定する金具を外して、空へ放り出したのだった。腰につけたパラシュートの紐を引っ張ることも忘れずに、僕だけを空に取り残して、彼女は、あの白いバイクと一緒に海へと落ちて行った。しばらくして、真っ青な海原に白い花が咲き、儚く散った。誰も止められなかった。誰も、誰も。僕でさえも。笑いながら、泣きながら、僕は、空を揺蕩う。異常に気付いたらしい参加者たちが、こちらへバイクを走らせるのが見えた。じきに、自分は救助されるんだろう。
あたしね、世界がどこまでも続いてるんだってことを、感じていたいの。彼女の言葉を思い出しながら、ぼんやりと、海と空の境界線を眺める。世界の向こう側を感じたように思えたそれは、よく見れば、結局、街から眺める水平線に過ぎなかった。青いだけで何もない海と、同じく何もない空。足下には、見慣れた鉄くずの群島。やっぱり、僕らはどこへも行けないんだなあ、と、改めて思った。
だが、あるいは、彼女だけは、どこかへ行ったのかもしれない。そんなことも思う。このどうしようもない街から、彼女だけは。近付いたバイクの手によって、ゆっくりと着地場所へ誘導されていく。僕はまた、周囲を取り囲む水平線を見た。凪のようだった蒼には、もう鱗のような白い波が見え始めている。瞬きをすると、ゴーグルの中に、最後の涙が落ちた。
あの向こう側へ、いつか行ってやろう、と、僕は思った。死ぬまでの時間を、僕は、彼女のために使おう。馬鹿な彼女が見せてくれた、一瞬の希望のために。
抱き続けた憧れは、泣きたいほどに美しかった。
〈了〉
バード・ダイブ 蔵野杖人 @kurano_tsuehito
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