第31首 坂上是則_画家3
朝ぼらけ 有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪
暗闇の中で、蝋燭のわずかな光源に揺れる金屏風を見たときのことを忘れることはないだろう。
初めて訪日して、日本の歴史的建造物とそこに設置されていた美術品を、当時の状態で鑑賞するという企画に参加したときだった。古い日本家屋は天井が低くとても歩きにくかったことを覚えている。首をすくめながら、上目使いで細かく彫刻された欄間を眺めていた。学芸員といってよいのか、案内をしてくださった地元の方が持つランタンの光がほとんど唯一の明かりだったので、私が見ることができたのは、彼が見せたいものだけであった。
それでも暗闇の中で目を凝らし、他の日本人の参加者の肩越しから、なるべく多くの調度品を目に焼き付けようとしていた。しかし、その数分後にはもう何もかも忘れてしまう衝撃を受けることになる。
ふ、と案内人はランタンの光を消した。襖で仕切られた部屋には照明器具がなく真っ暗となった。一瞬、困惑した空気が部屋に広がる。案内人は、参加者に手伝いを頼むと隣の部屋へつながる襖が、両開きに引かれた。
そこに、金屏風があった。
金色は生きていた。慎ましく、しかし力強く、憂を帯びた生々しい美という存在にゾッとした程だった。
案内人の説明は日本語だったので聞くことはできなかったが、興奮冷めやらぬ私に、日本の友人はIn Praise of Shadows という本を贈ってくれた。日本人の谷崎潤一郎とう著者の本だった。
その本には美意識、殊に日本の美意識について語られていた。最も印象深かったのは美が文化の延長線上にあるということ。昼は明るく夜は暗く、日本の自然と共に生活するという文化が、金を暗闇の中でで美しく活用させたのだろう。
本を読みながら、ルーブル美術館のニケの像を見たときの感動と、そしていいしれぬ寂寥感を覚えた時を思い出した。エーゲ海からはるばる運ばれたニケの像は、今にも飛び立たんと風と一体化したかのような美しい彫刻である。しかし、ニケの像はフランスにあるべきなのか、自然の中、神殿で凛と佇む姿こそ彼女の本当の姿ではないのか。美術品に対する完全な理解と、しかるべき環境での鑑賞が芸術に対する最高の賛美であるなら、芸術とはなんて自己満足なものなのか。当時自分の絵とその評価に疑問を持っていた私は、その疑問をギリシャ彫刻の傑作に重ねていた。私は自分の表現したかったことを、100%描きたかったし、100%理解した上で評価してほしかった。
伝わらないのは技術の問題なのか、あるいは伝えたいことがさして評価されないのか。今でも答えは出ない。しかし、それならそれで良いではないかと私は筆を持つ手を下さなかった。自分との対話を続けたかったのだ。
ひょっとしたら、自分の生み出したものに1%でも共感してもらえるかもしれない。その共感が人間同士の繋がりになり、流行がいずれ文化になって、共同体という人間の生活の拠り所になるかもしれない。
大それたことかもしれないが、それが私が絵を描き続ける理由だ。
キャンバスに広がる青が、いつかどこかで私の心と誰かの心を繋げてくれますように。
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