第30首 壬生忠岑_父
有明の つれなく見えし別れより 暁ばかり 憂きものはなし
「次はいつ来るの?」
80年代半ば、高校を卒業し東京に出て銀行に就職した。結婚をし子をもう蹴順風満帆だ……ったといつか言える日が来るだろうか。
世はバブルに浮かれ、跳ね上がる地価や株価で金が踊り舞っている。踊り舞っているのは、金やボディコンだけじゃなかった。金を扱う銀行員は日々オフィスで踊り狂っていた。融資・融資・融資。加えて各部門が独立した権限を持つよう大きな組織変更が行われ、日中の現場はもはや地獄と化していた。気に入っているアナデジの腕時計だって見る暇もない。ハッと気づくのは22時頃、働き盛りが黙々と作業に勤しむ時間になってからだ。今日は帰れるか、あるいは二徹目か。
仕事は嫌いではない。やったらやった分だけの見返りが口座に確認できたし、多忙さは少々のミスにすぐに挽回の機会を与えてくれた。それになにより、自分の仕事がそのまま嫁や子供のためになると思えたからだ。嫁とは社内婚のため銀行員の忙しさに理解があるし、社宅であるから貯金のない銀行員の新婚が多く(彼らの夫の帰りもほとんど深夜)寂しい思いもしていないだろう。俺が家族のために稼いでくる間、子供と一緒に家を守っていてくれる手本のような家内だ。感謝している。
「次はいつ来るの?」
そう言われたのは、久しぶりに家に帰ることができ、珍しく子供が早起きをした朝だ。玄関で家内に手を繋がれた圭子が、少々恥ずかしそうに「いってらっしゃい」と言った後だった。
胸が締め付けられた。
まるで家族の一員ではないかのような言葉だったが、しかし悲しみや憤りよりもむしろ使命感が体全体に広がった。戦争で不随になった左腕を庇うそぶりもなく毎朝仕事に行き、寡黙で、殴って分からせてくる親父を思い出した。
時代が変われば、愛し方も変わる。
俺の時代の俺の愛情を受けた圭子、そして腹の中の息子は新しい時代でどのように家族を愛していくのだろうか。
俺は圭子の頭をぽんぽんと撫で、「すぐ来るよ」と言って玄関を出た。
願わくは、その愛が全て正しく伝わることを……
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