第23首 大江千里_看護師2

月みれば ちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど


 大人になって、感情を一つの言葉で表すことがなくなった。

 看護師の佐々木美嘉は、病院スタッフの休憩室で看護師たちの会話から『悲しい』という単語だけ拾ってそう思った。彼女たちが何に悲しいと思ったのか分からないが、美嘉は悲しいという言葉が、何をあるいはどういう状況をいうのか、すぐに想像できなかった。

 最後に純粋に悲しいと思ったのは、いつだったろうか。

 美嘉は祖母が亡くなったときを思い出した。一般的に人の死は悲しいものである。病院に勤務して、人の死を間近で感じる生活をしていても、やはり身内の死は特別であった。美嘉は葬式で泣いた。しかし、今となっては何に対して涙を流していたのかは覚えていなかった。自分自身の涙より、当時高校生だった自分にとって、祖母の娘である母親が流した涙の方が印象的であったし『悲しい』により近かったかもしれない。

「まさか、九重晴人が一般女性と結婚するなんてね……喜びたいけどまだ悲しいよ……」 

 彼女たちの『悲しい』は、芸能人の電撃結婚の話だった。悲しい+悔しいだろうか、と美嘉は点滴輸液のミキシングをするかのように、悲しい輸液パックに悔しい薬剤を注射器で注入するイメージを浮かべた。

 悲しさはどこから来るのだろうか。そんなことを考えていると、心なしか本当に悲しい気持ちになってくる気がした。悲しい、悲しい……心の奥底がずんと重くなり、伏目がちになり胸が締め付けられる。

 どっと休憩室の中に笑いが溢れた。先ほどの看護師たちが大笑いをしている。一人は腹を抱えるほどだった。

 九重晴人が結婚を破棄したわけではないのに、と彼女たちの切り替えの早さを美嘉は冷静に見た。悲しいという言葉は、何かあるいはどういう状況を表すものではないのかもしれない。そうであるなら、悲しいという気持ちを共有することは不可能なのではないだろうか、と美嘉は思った。

 佐々木美嘉は疲れていた。同居する義母が認知症になり、夫は毎晩のように悲しいと漏らす。美嘉自身も義母にはよくしてもらっていたから、「どなた?」と言われるたびに悲しかったが、同じような状況を避けるために距離を置くようになった夫に代わり、介護の多くを担っていると、悲しさに何か別のものが混じっていることに気付くようになった。それが美嘉の疲労の原因であることは彼女にも分かっていた。そしてその疲れも悲しかった。夫も悲しがっているし、ひょっとしたら義母も知らない人に囲まれている家に悲しさを感じているかもしれない。

 悲しみが人を孤独にさせるのか、孤独であることを気付かせてくれるのか、美嘉はまだ笑いが満ちる休憩室の中で孤独を感じていた。

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