第17首 在原業平朝臣(サウダーデ)_外国
千早ぶる 神代もきかず龍田川 からくれなゐに 水くくるとは
思いがけない爽やかな風だった。
長距離列車から降り、地下鉄に乗り換えようとトランクを引きずりながら外に出た瞬間、うっかりすると胸元に引っ掛けたサングラスが飛んで行ってしまいそうな程強いのに、ぐんと押し寄せた透明な塊は不思議と清々しい気持ちにさせた。夏目前にしては肌寒い日が続くけれど、今日は快晴で気温も上がるようだ。久しぶりのホームタウンは私を喜んで迎えてくれるらしい。
地下鉄をヴェルメリオからアズゥに乗り換える。色で分けられた路線は、旅行者にわかりやすい。厳密に言うとvelmelho1というよりmomiji-iroだし、azulというよりgunjyo-iroに近い。もはや職業病だとため息混じりにazu1、azulと呟きながら足を早めた。
日本には400以上の色があるという。大学で知り合った日本人留学生、虹を見て七色だと言って驚いたのを今でも覚えている。日本人には私には見えない色が見えるのだと。よくよく聞いてみると、彼らもどこからどこまでがai-iroなのか分からないそうだが、少なくともその時の私にはazulでしかなかった。
地下鉄を下りて歩いて10分のところに目的地がある。薄い黄色の壁の何の変哲もない建物だったが、街並みの中に目立たないということが、街を構成する一部だと主張するかのようなアパートだ。かつて、いや、今はまだ夫と一緒に借りている部屋だ。
大通りに沿った一本隣の道の二階。小さなバルコニーから見えるのは、向かいの商店の住まいと、道を行き交う人々だけだけれど、気に入っていた。決定打は大家のマルコだった。
マルコは六十前後の、溌剌としてお腹の出た中年男性だった。
私たちが部屋を見ている間、マルコは他のフロアの住人に挨拶をしてくると言って出て行ってしまった。おかげで私たちは自由に意見しながら、部屋中を見て回ることができたのだが、ハプニングが起こった。マルコを呼びに部屋を出ようとすると、玄関の扉が開かない。故障していたようで中に閉じ込められてしまったのだ。
マルコに電話をすると、謝りながらも明るく笑いながら、鍵を開けるにはコツがいるんだ、と教えるから窓を開けて待っていてくれと言った。どうやら窓から入ってくるつもりのようだったが、すんでのところで鍵がガチャリと開き、マルコは電話越しで想像した通りの無邪気な笑顔で玄関から入ってきた。鍵の不具合は知っていたそうだが、ずっと連れ添った部屋の老いが愛おしくて、どうにも直し難いんだと悪びれもなく言った。貸そうとして要る部屋の鍵を付け替えない理由にはならないと思ったけれど、夫婦になってすぐの私たちにはマルコの言葉が響いた。(部屋を契約してから、鍵は付け替えたけれど)
私たち夫婦の始まりは、こんなふうにごく普通に始まって、そして今日ごく普通に終わる。
「Olá![#「!」は縦中横]久しぶりだな、何にする?」
「長く別居してた夫婦がついに離婚して、スッキリしてどっと疲れたときに飲むべきお酒は?」
バー『Nada』は、幼なじみがカウンターに立っている。たまに部屋に帰ってきた時には必ず飲みにきていた。地元の常連が集まり繁盛しているらしいが、いつもそれまでには退散することにしている。
「そうだな、とびっきりのウイスキーを勧めたいところだけど、お前飲めないもんな」
「飲めなかったら、バーになんて来ないわよ」
幼馴染は眉をくっと上げてニヤッと笑い、背中に並ぶ酒瓶を見繕い始めた。
私と元夫は2人の新居が決まってから、三ヶ月後すぐに別居生活をすることになった。私の栄転が理由だ。
仮住まいのはずだった引越し先は、新居からは北へ300kmの第二の都市。小さな広告代理店だが、新婚早々に別居を決断させるほど魅力的な仕事だと思っている。webデザインという仕事で何より楽しいのは、システム構築はもちろんのこと、クライアントが思い描いているイメージを実現させられることだ。彼らが製品を誰にどのように売りたいのか、力強いメッセージを発信したいのか、優しい柔和な印象を与えたいのか、打ち合わせで話す言葉の端々を捉えながら形にしていく。厳密な形容詞より、彼らの経験談や話し振りからの方が、イメージが湧きやすい。
「お待たせ」
すっ、とカウンターに勧められたグラスには、深い深いvermelhoが注がれていた。試すような視線をバーテンに向けて、グラスを唇に近づける。口に含むと、濃くて甘いアルコールが広がり、柑橘系の香りが爽やかに抜けていく。
「美味しい、なんていうカクテル?」
「名前はないよ、お前がリクエストしたんだろ。」
「あ、そういうこと?今の私のイメージってこと?」
「離婚してスッキリしてどっと疲れた、ってイメージ。」
勝手にリクエストしておいて、どんなイメージなんだかと思いながらも、なんだかしっくりとくる。
「こんな気分、二度と味わいたくないけど、このカクテルはまたオーダーしたいな。ね、名前つけようよ。」
バーテンは幼馴染の顔に戻って、んーと唸った。
「またオーダーしたい時は、またイメージを言ってよ。正直にいうと、定番のカクテルのレシピを分量変えて作っただけ。ニュアンスが違うだけだからさ、名前をつけるほどのものじゃない」
グラスを磨きながら、でも美味しいだろ?と続けた。
このカクテルは今の気分にピッタリだけど、同じくらいピッタリな言葉はあるのだろうか。
私たち元夫婦は、それぞれ確かに怒っていたし、悲しんでいた。でも、怒っているとか悲しいとかの言葉にした瞬間にお互いの溝ができたような気がしていた。私のことを思うなら、怒らないでほしい、悲しいなら帰って来れば良い、感情を言葉にした途端にどうにもならない行き違いを感じてしまった。
「そういやさ」
グラスを磨きながら、何やら嬉しそうに勿体ぶったように話しかけてきた。
「俺、papaになるんだ、来月」
「おめでとう!すごいじゃない!」
すんなりと返答が口をついた。おはようと言われて、おはようと返すくらい、当たり前の返事をしてしまった。本当はもっと、一瞬のうちに色々な言葉が浮かんだのだけれど、その中で無難そうなものを続ける。
「もっと早く教えてくれれば、と思ったけど言えなかったよね。来月かぁ、ちゃんとお祝いしたいな。」
「ありがとう、興奮しているよ。直接言いたかったから、なんていうか、今日言って良いか悩んだんだけど」
「聞けてよかったよ、嬉しい話も持ち帰れるし」
「そう言ってもらえて良かったよ」
「名前は?」
「まだ決めてないんだけど、俺たち夫婦の特別な子供だって気持ちを込めて名付けたいんだ」
店の外が騒がしくなったと思ったら、ドアが開き、4、5人のすでにひっかけてきたような男たちが入ってきた。外の空気と一緒に男たちの雰囲気も流れ込み店内が曖昧になる。
「帰るね、そろそろ」
「あぁ、名前決まったら連絡するな」
支払いは次のときな、とかれこれ5回近くは続いている別れの挨拶をする。
チャウ!と、先ほど入ってきた見知らぬ男たちから陽気にさよならと挨拶をされる。酔っ払っている。
外は夜も更けて、街灯が石畳の凹凸に陰影をつけていた。今日という日を名付けることはないけれど、いつかNadaに通った日々を名付ける日がくるだろうか。
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