第5首 猿丸太夫_猫
奥山に 紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき
にゃー
公園の茂みから、少し疲れたような足取りで、しかし大きな体をしっかりと支えて一匹の猫が現れた。この黒い斑のある猫は、足先が黒く、黒い靴下を履いているように見える。
木内さなえが六十二歳で夫を亡くしてから、彼女はこの公園に散歩に来ることを日課にしていた。木内夫婦には子供がなく、さなえは夫が亡くなるまで看護師として働いていた。さなえが働いていた病院では、定年が六十五歳であったが夫が亡くなったことで生活も一変し、新しい人生を自分のためだけに過ごしたいと退職を決めた。
退職を決めてからは、旅行雑誌を買い漁り、地元のテニスサークルの情報を収集したりと浮き足立っていたが、いざ平坦な毎日が始まると旅行に行くタイミングやサークルの見学に行くきっかけを掴めずにいた。なんとか計画を立てて、念願だった日本一周のクルージングをした頃には退職してから二年が経っていた。
それからは、大きな幸せを楽しみにして過ごすよりも、小さな幸せのあるルーティンが性に合っているのだと思い、趣味のテニスに加え、自然が多く四季を楽しませてくれる公園への散歩を日課にするようになった。さなえは、心地よい繰り返しの中に変化を見出す生活に満足していた。
「この公園に来るようになって、あんたとはもう十年近くデートしてるわね」
さなえはこの猫に名前をつけていなかった。愛着を持ちたくなかったという理由だったが、猫も毎日ほとんど同じ時間に、公園の決まった場所に現れるため、否が応にも猫に会うために公園へ行く習慣ができてしまった。
猫はいつもと変わらず、さなえから一定の距離を保って毛繕いを始めた。距離は初めて出会った時から変わらなかったが、リラックスしている姿を見て心の距離は縮まっているのだろうとさなえは思っている。
猫が毛繕いをピタッとやめて、何かに注意を向けた。鳩だった。
鳩の一団を見つけた猫はすっと体を這うように地面に近づけた。後ろ足の場所を確かめるように尻を振り、静かに狙いを定めた。肩甲骨を浮かせながら、じりじりと迫る。鳩は猫の存在に全く気付いていない様子だった。猫が後ろ足にグッと体重をかけたように見えた瞬間、まるで弾が発射されたかのように鳩の集団に飛び込んでいった。同時に鳩たちは散るように飛び立ち、猫は飛びつこうと足掻くも、残念ながら成果を上げることはできなかった。
「あんたもう若くないんだから、無理しちゃだめよ」
猫は何事もなかったかのように、背筋を伸ばして行儀良く座り顔を洗い始めた。
「出会った頃は、あんたも若かったのにね。今じゃお婆ちゃんでしょ。私なんて出会った頃からお婆ちゃんだけど」
猫は成人すると、一年で人間の約四年分の年を取るという。猫とさなえの十年という月日は、猫にとって約四十年という歳月を経ていた。
にゃー
鳴き声が出会った頃に比べて低く掠れているように聞こえ、さなえは猫と過ごした月日を感じた。
来た時と変わらず、少し重たそうに感じるけれど着実な足取りで猫は去っていった。
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