7

 喉が乾いて目が覚めた。カーテンの隙間から白い光が漏れている。明け方らしい。

 腕の中で杏菜は寝息を立てている。起こさないよう、枕になっている腕をそっと外して、キッチンへ向かう。

 蛇口を捻って水を汲む。行為の余韻が腹の奥からせり上がり、多幸感に包まれる。覚えていなくたっていい、こうして同じ時代に生まれて出会えたのだから。

 美味しくない水道水で喉を潤していると、背中から「きゃあ!」という悲鳴が聞こえた。

 ――杏菜。

 すぐさま振り向いて駆け寄る。

「どうしたの!」

 身を起こした杏菜は右手で左腕を握っていた。


 その腕には手形のような黒いアザがつき、そしてその部分だけがびっしょりと濡れていた。


 ざあ、と血の気が引いた。あの部屋にいたやつだ。ついに部屋から出て追ってきた。しかも、今度は私じゃなく杏菜を狙っている。

 そう思ったら、今度はカッと頭に血がのぼる。私ならいい。でも、杏菜に手を出すのは許さない。

 私は立ち上がり、適当な服を引っ掴んで身につけた。

「マリさん、どこに……?」

「今舞港」

 あの心中の現場。

「ケリをつけてくる。絶対に杏菜には手を出させない」

 玄関に向かおうとすると、「待って、私も行く」と追いすがってくる。宥めようとしたが、杏菜は頑固だった。

 仕方なく、杏菜を連れてタクシーに乗った。


 タクシーが停車しないうちから多めの料金を置いて、停まると同時に外に出た。

「杏菜はここにいて」

 でも、と言いたそうな杏菜を置いてドアを閉める。

 朝六時前の港は無人だった。太陽はとう顔を出しきって、水面にその光をチラチラと瞬かせている。無理心中や怪奇現象なんてとても似合わない、爽やかな夏の朝。

 作戦があるわけではなかった。霊を呼び出す方法も知らない。でも、が道連れを求めているのはわかった。

 一人ぼっちで死んだ女が、一緒に死ぬはずだった女の身代わりを求めている。

 だったら、その身代わりになってやる。それで杏菜が守れるなら。

 私が死んで杏菜が救えたら、あの日、私の身勝手で殺したアンへの、多少の償いにはなるだろうか。

 肺いっぱいに空気を吸い込む。

「出てこい!!」

 海に向かって叫んだ。

「連れて行くなら私にして! あの子には手を出すな!」

 私の声だけが響いて、やがて波のさざめきの中に消えていく。

 海は変わらず、宝石をばらまいたみたいに光を反射させている。


 と。


 ず。と海の中心が盛り上がった。

 ぐぐぐと上に伸び、ねじれる。それでもまだ水の色は澄んでいて、太陽は照っていて、それはまるで奇妙なオブジェのようだった。

 ぎりぎりとねじれていき、止まる。と思った瞬間、反動で逆回転しその勢いで枝分かれした。

 蛸の足のようにぐねぐねと、それぞれの水の塊が蠢いている。

 その先端が、一斉に私の方を向いた。

「私で最後にしなさい」

 水を睨みつけて言った。

 そのうちの一本が、こちら目掛けて迫ってくる!


 どんっ


 背中を突き飛ばされ、私は前のめりに転ぶ。

 なにが起きた?

 そう考えるまもなく顔を上げると、


 杏菜が水に囚われていた。


 その瞬間は、スローモーションのように見えた。

 つま先から這い上がるように水が絡みつく。

 杏菜は身体を捻ってこちらに顔を向けようとする。 

 その表情はなぜか晴れやかで。


 杏菜の口が動いた。


 次の刹那、杏菜の全身は水に飲み込まれ、せり上がっていた他の水もすべて消滅し、そこには元通りの、爽やかな夏の朝があるだけだった。


「――」

 言葉も、涙も出なかった。

 なにもわからなかった。理解したくなかった。杏菜を守るためにここまで来たのに、その杏菜がいなくなったの……?

 よろりと立ち上がり後ずさると、足に何か触れた。

 杏菜のトートバッグだった。

 タクシーから駆け出して、バッグを落として、私に体当たりしたんだ。

 拾い上げるとグシャ、と音がした。メモ帳が開いたままで入っていた。その開いたページに「読んで!!」とボールペンで何度も引いた太い線で書いてある。

 私はそのメモ帳を取り出し、ページをめくった。



「そんなことで償った気にならないで、マリア

 あなたのことだから、私を殺した代わりに今度は自分が犠牲に、なんて思ってるでしょ

 私生きてたんだよ あなたは私を殺しそこねてひとりでいっちゃったんだよ

 一人ぼっちで辛かったのは私の方

 だから今度はあなたが一人で生きて

 私がいなくても生きるのがあなたの償い

 ハッピーエンドは来世までおあずけ

 次に会ったら私が死んだあとのこと聞くからね、勝手に死んじゃだめだよ わかった?


 今世でもマリアに出会えてよかった」



「……アン……」

 その名前を呼んだら、嗚咽が溢れて止まらなかった。私は口を押さえてその場にへたり込む。

 瞼の裏には、最後の杏菜――アンの顔が焼き付いている。

 ――あ。

 そうか。

 アンが最後に言った言葉。


 ――またね。


 それに気付いたら、とうとう涙も溢れてきて、私は声を張り上げて泣いた。



 泣いて、泣いて、声も涙も枯れた頃、私は立ち上がる。

 膝を払って、トートバッグを握りしめて。

 そして私は海を背にして歩き出した。

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わたしの女 ナツメ @frogfrogfrosch

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