15(終幕)

 夏休みも終わって、九月上旬のある日。

 ――凪城祭の当日。

 晴天の空には、溶けたアイスクリームみたいに形のはっきりしない雲が浮かんでいた。朝晩はずいぶん涼しくなって、季節の歯車がまわっていることを実感する。とはいえ、昼の最中となると太陽はまだまだ元気だ。

 学校は当然のように、文化祭特有の雰囲気に包まれていた。海水と淡水が混じっているみたいな、何だか変てこな空気である。それはどっちでもあり、どっちでもない状態だった。

 演劇部の公演は、体育館で午後の部の頭から行われる予定だった。当たり前だけど、わたしたちは緊張していた。クラスの用事が片づいた部員から視聴覚室に集まっていたけど、手枷足枷に猿轡まではめられたみたいに体の自由が利かない。いつものことだけど、逃げ出したくなる。

 それでも逃げ出す部員は一人もいなくて、全員が視聴覚室に集まった。毎度のことながら、少しほっとしてしまう。

 緊張でかちこちのわたしたちの前に部長が立って、励ましと注意と最終確認を行った。

「さて、今日はいよいよ公演日です。不安はあるだろうけど、練習通りにやれば大丈夫。深呼吸して、胸を押さえて、慌てずゆっくりそのことを思い出して。とにかく、舞台を無事に終わらせること――」

 鹿賀部長は、もちろんわたしに言ったようなことは片鱗も見せなかった。そんなことはおくびに出したりもしない。そこにいるのは、あくまで有能で理知的で頼りになる、いつも通りの演劇部の部長だった。

 みんながみんな、どこかの王妃みたいに復讐を声高に宣言するわけじゃないのだ。

 やがて時間が来ると、わたしたちは体育館に向かった。大道具の設置や、照明、音響機材のチェック、舞台の確認を行う。広い客席には休憩中らしい訪問者の姿がちらほら見かけられ、わたしたちのことをもの珍しそうに眺めていた。

 すべての準備も終わり、あとは開演時間を待つばかりになる。いつものことながら、その時間は永遠に訪れないような、あっという間にやって来そうな、ひどく特殊な歪みかたをしていた。わたしは部長の言葉を思い出しながら、何度か深呼吸した。思ったより、けっこう効果がある。

 体育館には徐々に人の流れが出来て、客席のイスは順番に埋まっていった。もちろん、ほとんどは生徒の父兄とか学校関係者になるのだけど、そんなのは何の慰めになったりもしない。

「――おお、けっこう入ってるね」

 と、舞台袖で客席をうかがっているわたしに向かって、椛ちゃんが言う。当然だけど、彼女の心臓は強い。きっと眼鏡をかけていないせいだ。

 締め切られたカーテンの向こうで、太陽の光はぶ厚い斧で切断されたみたいに遮られていた。粒子の粗い照明が、館内を照らしている。人々のざわめきが、意味の崩れた言葉になってあたりを満たしていた。

 やがて、時計が開演時間を告げる。

 ――照明が落とされ、場内は暗闇に包まれた。その暗闇に吸収されるみたいにして、ざわめきもいつしか消えてしまう。

 わたしは機械室で、乙島さんに用意してもらったマイクに向けて口を開いた。


〝……これから上演される舞台『アガメムノン』は、古代ギリシアの時代に書かれた悲劇作品です。作者は三大詩人と謳われる、アイスキュロス。紀元前四五八年、実際に上演もされました。

 当時の劇では、観客はみなその内容を知悉していました。ストーリーも、テーマも、結末も、そこで語られるはずのことについては、すでに知っていたのです。なので、ここで事前にそのことをお話しするのは、時宜に適ったことであると思います。

 ――悲劇は、十年におよぶ長いトロイア戦争から、王が帰還したことによって起こります。勝利したギリシア方の総大将であった彼は、故郷の屋敷で、その妻によって殺害されます。それは戦争の際、娘を人身御供とされた恨みからのものでした。また、それは王家の血の因縁が成したことでもあります。

 劇は、王妃とその共謀者による凱歌によって幕を閉じます。復讐は成されたのです。物語はさらなる復讐とその救済へと続くのですが、それはまた別のお話です。この劇の主題は、あくまで王妃クリュタイメストラにあります。

 いずれにせよ、これは古いお話です。私たちとは、ほとんど何の関わりもない、登場人物もストーリーも場所も時代もはるか遠く隔たった、一つの舞台でしか。けれど、これは確かに、私たちのお話でもあるのです。……〟


 そう言うと、わたしはマイクのスイッチを切った。そして舞台の一部を照らすように、調光卓を操作する。サスペンションライトのつまみに指を置いて、ゲージをゆっくりと上げていく。暗闇の世界に、舞台上の見張り番だけが浮かびあがってくる。


〝神様、どうかお願いです、この苦役からの解放を。見張りももう一年、眠ったり起きたり。御殿の屋根を抱いて――まるで犬だ。〟


 久瀬先輩演じる見張り番が、舞台の開始を告げる。ギリシア劇らしく仮面をかぶった役者が、観客の目に映った。とても静かに、とても密やかに、舞台の空間が形成されていく。

 ――前口上の件に関しては、それは本来わたしじゃなくて、鹿賀部長が担当するはずのものだった。これは文化祭用に特別編成されたもので、元の脚本にも載せられていない。だから、文章を考えたのもわたしだった。

 どうしてわざわざそんな役を買ってでたのか、本当のところわたしは自分でもよくわかっていない。格別の思い入れがあるわけでも、のっぴきならない理由があるわけでもないのだ。それにこの口上書きは、部長こそ考えるべきことだったような気もする。

 それでも――

 わたしはその役目を、引き受けたかった。何らかの形で、運命と関わっておきたかったのかもしれない。わたしにとっての、これは一種のカタルシスだったのかも。

 舞台は進んでいって、鹿賀部長の演じるカッサンドラの出番がまわってきた。突如沈黙を破って、過去の因縁と未来の運命を語る、呪われた女予言者。


〝けれど神々は、私たちが名もなく果てるのをお許しにはならない。私たちの名を高めるお人が、いつかここに現れる。母を殺し、父の血の代償を求める若木が。〟


 そのあいだ、わたしは舞台を見つめながら照明の操作を行っている。調光卓のゲージを上下させ、スイッチを切り替える。それに伴って、舞台は明るくなり、暗くなる。

 舞台を照らす、というのはいつも不思議な仕事だった。もちろん、そんなのは「暗いと何も見えないじゃないか」という、ごくごく単純で物理的な問題でしかない。人間の目は、暗闇でものを見るようには出来ていないのだ。

 にもかかわらず、それはどこか深遠で象徴的な行為でもある。

 セーラー服姿のクリュタイメストラが、血塗れの仮面をかぶり、血に染まった赤い手袋をして舞台上へと現れた。

 照明が、無言でそれを照らしている。

 わたしはいつも、不思議な気持ちになるのだ。舞台を照らすという、ただそれだけのことが。

 ――本当に、本当に、不思議な気持ちに。



 当初、一度だけの予定だった演劇部の公演は、好評につき文化祭の二日目にも行われることになった。

 急な変更ではあったけど、部長をはじめ部員一同、まんざらでもなさそうな顔をしている。苦労のがあったとういうものだ。

 もちろん、それはわたしだって。

 それからたぶん、鷲のことを恨みながら天国にいる、禿頭のアイスキュロスも。

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