14(虐げられた女)

 わたしたちは舞台の端に座って、足をぶらぶらさせていた。もうそこは、舞台上とは言えなかった。不在の観客もどこかに行ってしまっている。体育館は、もうからっぽの場所だった。

「――鹿賀麦は、小森さんの言うとおり私の母よ」

 と、部長は言った。とても静かな、音のない世界みたいな静かな声で。

「私の名前は、母にちなんだものよ。というわけ」

 わたしはふと、そのことに気づいた。

「もしかして、真穂というのは……?」

「そう、ね。これだと英語読みになっちゃうけど。本当はホメロスからどうにかしたかったのかもしれないわね」

 西洋古典学者らしいといえばらしい名前のつけかたではある。そうして、部長は話を続けた。

「……もう知ってるかもしれないけど、私の母は五年ほど前に亡くなってるわ」

 確かに、わたしはそれを知っていた。当時は気づきもしなかったけど、ネット上には訃報も残されていたからだ。

「お母さんの死と『アガメムノン』に、何か関係が?」

「あると言えば、あるとしか言えないわね」

 部長は星でも見るような顔を、遠くのほうに向けていた。雪を戴いた山嶺みたいな、凛として澄んだ横顔である。わたしには逆立ちしたって、こんな表情を浮かべることはできない。自分が役者に向いてないことを、わたしは再認識していた。

「母は、母は不幸な人だった――いいえ、違うわね。幸福とはいえない人だった、と言うべきかしら」

 まるで夜空に囁く独り言みたいにして、部長は言う。

「少なくとも、結婚生活に関しては不幸だった。親の決めた結婚で、相手は中央官庁に勤める、地位も身分も申し分ない人だった。娘の私が言うのもなんだけど、ハンサムでもあったわ」

「なのに、不幸だったんですか?」

 わたしが訊くと、部長はこくりとうなずいた。

「父は、悪人とは呼べないにしろ、善良な人ではなかった。仕事第一で、男尊女卑的なところがあった。少なくとも、女は家庭を守るべきだ、というところがね」

「なかなか古い人なんですね」

「……考えてみると、皮肉な話よ」

 と部長はかすれた笑顔を浮かべた。

「古典を愛した母だったけど、古風な父のことは愛せなかったんだから。束縛、犠牲、忍従、抑圧――母はそういったものを強いられた。学者としてのキャリアを諦めなければならなかった」

 確かに、不幸な話ではある。

「どれも、母には耐えられないことだった。けれど、いろいろなにがんじがらめにされて、母は身動きがとれなかった。離婚なんて、考えられなかった。母にできたのは、ただじっと、無理にでも耐え続けることだけだった」

「たぶん、お母さんは強い人だったんでしょうね」

「そう――でもその強さが、不幸のもとだったのかもしれない。母は辛抱強く、我慢強かった。古代のギリシア語やラテン語を学ぶときと同じように」

「世界の平穏の裏には、誰かの犠牲や忍耐が隠されているのかもしれませんね……」

 ある種の感慨というか、深くて長いため息を込めて、わたしは言った。

「そんな母だけに、娘の私のことはとても愛していたわ。断ち切られた学問への愛、望まない夫への愛、そういったものを向けられる場所が必要だったんでしょうね」

「良いお母さんだったんですか?」

「世界で一番くらいにはね」

 自分の母親に聞かせてあげたい話だった。あるいは、聞くべきなのはわたしのほうなんだろうか?

「母はいろんなことを教えてくれたわ。古くて魅力的な歴史、様々な文字の秘密、世界を命あるものにする物語――。その一方で、自分や父のことを私に悟らせようとはしなかった。その暗くて冷たい場所のことは、ひたかくしに隠していた。私は何も知らず、世界をただきれいな場所だと思っていた」

「……でも、お母さんは亡くなってしまった?」

「ええ――」

「どうしてなんですか?」

 わたしが訊くと、部長はしばらく黙っていた。天文学的な観測に使えそうな、スケールの大きな沈黙だった。

「……すみません、こんなこと訊いて」

「いいのよ」

 と、部長は頭を振った。

「それも、悪くないことだと思うの。誰か一人くらい、私以外にこのことを知ってくれていてもね」

 そんな資格が本当にわたしにあるかどうかは、今は不問にしておこう。

「話を大きく端折ることになるけど、母は子宮頸癌にかかったの。結果的には、それが命とりになった」

「手術とかは、しなかったんですか?」

「もちろん、したわ。子宮を全摘出することになった。母は最後まで躊躇していた。でも父は、それをまったく顧みなかったし、理解もしなかった。ある意味では、父が母からそれを奪ったとさえ言えるほどにね」

「…………」

「手術自体はうまくいった。でも、一年後に転移が見つかった。今度は化学療法を行うことになった――でも母には、もうそんな苦痛に満ちた治療を受けつけるような気力は残っていなかった。もう十分、母は苦しんできたから」

「それで、お母さんは……?」

「多臓器不全、ということらしいわ。詳しい診断については、今でもはっきりしていない。たぶん母は――母は自ら終わりを望んだんだと思う」

 部長は声を震わせもしなければ、泣きもしなかった。でも、そうなるまでにどれくらいの時間が必要だったのかは、わたしなんかには想像もできないことだった。

「父は子育てなんてできる人じゃなかったから、私は母方の叔父さんのところに預けられた。夫婦なんだけど、子供がなくて、私を本当の娘みたいに可愛がってくれてる。とてもいい人たちよ。天国にいるとしたら、母も安心してるでしょうね。父は出世して、どこかの政庁の事務次官にまでなってるらしいわ」

 先輩の長い話に、わたしはため息をついた。ため息なんてついてどうなるものでもないのだけど、それ以外にうまい生理的反応なんて思いつかない。

 世界には、あくまで皮相で、形而下的で、混沌として現実的な――悲劇があふれていた。

「――だから、『アガメムノン』なんですか?」

 わたしは静かに訊いた。今、ここにあるのはカタルシスなんだろうか。それとも、畏れや、反転した歓喜や、正体のわからない震えなんだろうか――そんなことを思いながら。

「これは、虐げられた女の復讐劇なのよ」

 と、部長は言った。とても客観的に、とても冷静に。

「彼女が一番の理由にあげる娘の死は、結局のところは彼女自身の死でもあるの。彼女は夫に殺されてしまった。無残にも。大義名分や、傲慢の犠牲になって――」

 部長はすっと、立ちあがった。再び舞台上に戻るみたいに。

「この劇は、弔い。私から母への。世界から母への。母は復讐すべきだった。血の報復をなすべきだった。例えそれが、どんなに間違ったことだったとしても」

 わたしはそんな部長を、ただ見ていることしかできなかった。とても遠くに、手の届かないくらい遠くに隔たってしまった彼女のことを。

 それから、わたしはふとあることに気づいて慄然とする。

「もしかして、部長は一年の時から……演劇部に入ったときから、この劇をやるつもりだったんですか? そのために演劇部に入ったり、部長になったりした?」

 その問いに、部長はかすかに笑った。ミステリアスで、捉えどころのない、新月の光みたいな、いつもの笑顔である。

「復讐には長い計画がつきものよ。どこかの王妃みたいに、十年というわけじゃないけれど――」

 それから最後に、部長はこんな言葉をつけ加えた。何かを祈るみたいに、何かを守るみたいに。

「例えそれが劇でしかなかったとしても、虚しい絵空事でしかなかったとしても、願いは叶えられるべきなのよ」

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